主よ祈りをおしえてください(9)アビラの聖テレサ(5)

2012年7月25日

久しぶりに 『祈りを学びたい人に』 をお送りします。

今年の3月に掲載致しました 
『主よ祈りをおしえてください(9)アビラの聖テレサ(4)』 の
続きとなります。中々更新出来なくて すみません。

前回の掲載分はこちらです↓
主よ祈りをおしえてください(9)アビラの聖テレサ(4)

 

花と虫

 

主よ祈りをおしえてください(9)アビラの聖テレサ(5)

 

 アビラのテレサの助けを借りて祈りの説明をしてきました。少しまとめてみたいと思います。

 

祈りとはつきつめて言えば、神様との対話、会話です。なぁんだ、と思われるかもしれませんが、ちょっと待ってください。「神様との対話」ということの中にとても大切なことが含まれています。それは神様がわたしたち人間と対話する、ということです。聖書の神、わたしたちキリスト者が信じている神は人間と対話される神です。常に人間に語りかけ、わたしたちの応えを待っておられる神です。その神はどこか遠くにいて人間に無関心な不動の存在ではありません。 

 神様は世界を創造し、人間を創造して、それらすべてを「善し」とされたと聖書は語ります(創世記1章)。世界の創造も、人間の創造も神様の愛にその起源があります。そして神様は、人間がご自分の創造の仕事に参加するようにと、その思いを語り続けておられるのです。いのちを神様からの贈り物としていただき、神様の思いを聞き取ってそれを果たし、神様のもとに還っていく。そのわたしたちの一生を通して、祈りはなくてはならないものです。 

 そしてもうひとつ、祈りにおいては神様の思いを聞き取るだけではなく、神様の愛をも聞き取ります。わたしたちのいのちは、神の愛の賜物ということをお話ししながらふと思い出したことがあります。みなさんは『フランケンシュタイン』という小説をご存じでしょうか。小説よりも、ホラー映画か物語に出てくる怪物としてなじみ深いかもしれませんが、このフランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく、その怪物を造りだした人の名前です。怪物には名前がありません。これも非常に意味深いことです。 

 名前がない「何か」。そして、この怪物が自分を造りだしたフランケンシュタインに向かって言う言葉に印象的な台詞がありました。本が手元にないので正確な引用ではありませんが、怪物が自分を造りだしたフランケンシュタインに言うには、「あんたはわたしを造ったときに、愛をこめてくれなかった」と。ひるがえって、わたしたちは一人残らず神様に望まれて生まれたものです。たとえ人間の親に望まれなかったとしても。 

 

 神はおっしゃいます。たとえ人間の親があなたを愛のうちに産み出さなかったとしても、わたしはあなたを愛のうちに造った、と。

復活のキリスト

 

 横道にそれてしまいましたが最初のお話しを続けます。神様はわたしたちに語り続けておられることが祈りの大前提です。その神様の呼びかけに人間が応え、神様とコミュニケーションをとるということは、狭義の「祈り」にとどまらず、キリスト教の霊的生活全体にあてはまることです。アビラのテレサが祈りの話を書きながら、いつのまにか信仰生活全般に関わる話をしているのもそのためです。そして神とのコミュニケーションの最高のモデルが、イエスと、その父である神とのコミュニケーションでした。 

 イエスが長時間の祈りに専念しておられる姿は福音書、とくにルカの福音書によく描かれます。イエスが言葉で父に語りかけられたか、沈黙のうちにとどまられたか、あるいは単にまなざしを父に注いでおられるだけだったのか、いずれにしろ、全面的な信頼のなかで父と交わされたコミュニケーションの内に、イエスがご自分の生きる力と使命のすべてをくみ取っておられたことは、間違いありません。

  わたしたち人間は関わりのうちにこそ、そして最終的には神との関わりのなかにこそ、生きる力をいただきます。その大切な手段のひとつが祈りです。

文 : 中山真里