[聖週間の黙想] 聖木曜日 聖体 – 愛の最高の贈り物 福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父

2018年3月26日

聖なる過ぎ越しの三日間を主と深く一致してお過ごしいただけるよう、
福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父のお説教やメディテーションを連続してお届けします。

今回は、1960年4月14日 聖木曜日 のお説教 聖体 – 愛の最高の贈り物です。

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今日、この日、福音史家ヨハネの言葉を繰り返す以外何が言えよう。

「過越祭の前のことである。イエスはこの世から、父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13-1)

イエスは、地上での生活の間、弟子達を愛され、極みまで彼らを愛されました。使徒ヨハネは、その時、イエスの最も偉大な行為―聖体の制定―に先んじて行われた洗足の様子をつたえています。こうして、イエスの愛された使徒、特別に師の心の秘密に分け入ったこの使徒は、聖体の制定を弟子達に対するイエスの愛の最高のあかしとしています。ヨハネはこの事を、イエスの受難と復活にも勝るのもとしているかのようです。

聖書、特に聖パウロの書簡の中で、受難はキリストの父に対する従順のあかしとして、示されています。父が子を渡したのであり、「子」の託身と死、その御血によって、罪を償うのです。父は、御子キリストの内で、罪が離したものを、再び結びあわされ、一つにされました。そして、イエスは、御自身の苦しみと死を父への従順のあかしとされ、愛の最高のあかしとして私達には、聖体を制定して下さいました。

実際イエスは御聖体の内で何をなさっているのでしょうか?いけにえとなった御自分の体を与えられ、自ら流された血をあたえられます。私達の食べ物、飲み物となるため、御自身を完全に私達に与えられるのです。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

この文章はこう解釈せねばなりません。イエスは弟子達を、つまり全てのキリスト者を、世の終わりまで愛されるだろうと。聖体により、毎日捧げられるミサの犠牲により、愛されるだろうと。そして、毎日の聖体拝領による信者のこの犠牲への参加により愛されるのだろうと。自らを与える事により、イエスは超自然的生命(la vie surnaturelle)を与えられ、私達の魂の中に、この生命を注がれます。そして同時に、この超自然的生命の隠された力を増し、教会を築きあげられるのです。

イエスが私達に与えられるこの生命とは何なのでしょうか?

それは恩恵により、イエスの神性(nature divine)に参与することです。同時にイエスは、御自分の全ての特権を与えて下さいます。私たちがご自分と一つになるようにと、自分自身を与えてくださるのです。聖アウグスチヌスが指摘したように、実際はイエスが私達を食べるのです。そして私達を捕らえ、御自分に同化して、自分そのものとなさるのです。イエスはこうして、持っているもの全てをくださり、私達の魂の中で次第次第に、御自分との一致、同一化、愛の似姿を実現されるのです。これこそが、愛の最高のあかしです。

イエスは、私達がもう一人のキリストとなるようにと、地上ですでに御自分と一致したものとなるようにと、自らを与えて下さいます。それもイエスと共通の生活を通して

、そしてイエスが私達の内に実現される和合(union)、さらに一致(unite)、キリストの神秘体(Corps mystique)の一致を通して。

こうしてイエスは我々を頂きの高みへと、御自身昇ってゆかれる聖三位のふところへと連れて行くことを望まれるのです。

イエス御自身であるこの食べ物により、キリストと同一のものとなり、キリストが我々の魂に注がれる超自然的生命によって、我々は父の愛にふさわしいものとなるのみでなく、父の喜びとなり、より豊かに神の光と愛を受けるに値するものとなります。我々は、キリストから受け継いだものにふさわしいものとなるのです。これこそが、イエスの私達一人一人に対する愛のあかし、世の終わりまで広まってゆくあかしなのです。なぜなら、周知のように、聖体によってこそ、イエスと聖霊は教会を築きあげてゆくからです。

聖体は運河、大河であるといえます。なぜなら、諸秘跡、信仰や愛による神とのふれあいなどによって私達の魂の上に注がれる恩恵のすべては、聖体によってもたらされるからです。

 

私達が今こうして祝うこの秘跡の制定は、すばらしく、驚くべき非凡なものですが、主イエスがパンをふやした後、この制定の事を少しあらわにした時には、つまずきのもととなるように見えたほどでした。神に、そしてこの秘跡を大胆にも成し遂げた主イエスに、感謝を捧げましょう。一見不可能なことにみえ、つまずきのもととなるように思われたにもかかわらず、主は勇気をもって、御自分の肉と血をくださったのですから。主は、パンとぶどう酒の実体を自分の体と血に変えるという偉大な奇跡を成し遂げました。これは今なお、人間の知識や哲学をも狼狽させる奇跡です。真実らしく見えない事ばかりでなく、一見不可能に見えることさえ、主はものともしませんでした。御自分を私達に与えるために、全能の力を行使することを望まれたのです。

主イエスにこの贈り物を感謝しましょう。聖体を通して、この世界へ、そして人間の魂の中へとすでに注がれてきたすべての超自然的生命を感謝しましょう。聖体の恩恵をうけキリストに一致する恵みを与えられた全ての人々のことを感謝しましょう。そして、今からまえもって、この聖体によって実現されるであろう素晴らしい作品、すなわち完全なる姿のキリストの神秘体を感謝しましょう。永遠の昔から神はこの勝利の教会を喜びと満足をもってながめてきました。イエスは大祭司カヤファの前で、そのことを自分の最高の返報(revanche)として思い起こさせ、それ以外のものを望もうとはしません。「あなた方は、人の子が、選ばれた者全てと共にあるのを見るであろう」選ばれた者とは、御自身が選び、一致し、変容させた者達、主とのふれあい、そして聖体によって、ご自身と同じものとなった者達のことです。「イエスは弟子達を極みまで愛された」これこそが、主の愛の返報なのです。

ですから、今から、この秘跡をきちんと受ける決心しましょう。

使徒パウロは、コリント人へこの秘跡を受ける際に持つべき純潔な心構えについて、重々しく警告しています。

この体と血とが私達の中で、働きかけるものとなるには、清い心で御聖体を食べ、御血を飲まねばなりません。

主ご自身、聖体を制定する前に、使徒達の足を洗うことにより、彼らに同じ重大な教訓を与えました。

「あなた達は清い。だが、わたしはあなた達をそれ以上に清めねばならない。完全に清いものになるよう。私自身、あなた達の足を洗わねばならないのだ。」

確かにこの秘跡をうけるためには、心の清さが必要です。イエスの愛のあかしを感謝すると同時に、キリストの体を受けるためには、自分自身を清めるという、具体的な決心をしましょう。頻繁に聖体拝領できることや、容易に、主の体を食べ、血をのむことができるからといって、我々が、この秘跡を受けるにあたって投げやりな態度をとるようではなりません。ですから、いつも自分自身を清めるように心を配り、謙遜に満ちた心で御前に進み出るようにしましょう。

イエスは小さなホスチア、一つの「もの」とまでなられました。この隠れた威光の前で、私達こそが、身を低くすべきなのです。このキリストの秘跡、キリスト自らなさったこの贈り物が私達の魂の中で、十分な効果をあげるためには、私達こそが、身を低くし、自らを清め、信仰を育ててゆかなければならないのです。

日本語訳:片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)

Eucharistie, don suprême de l’amour
In Jésus contemplation du Mystère Pascal, P.Marie Eugène de l’E.J.
(homélie du Jeudi Saint, 14 avril 1960)