イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために(1) 幼きイエスのマリー・エウジェヌ神父と共に 講話:エマヌエル神父様

2019年4月15日

数年前にエマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を5回に分けて再度掲載致します。良い聖週間をお過ごし下さい。

エマヌエル神父様イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
~幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に~

講師 エマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)

 

 

 

はじめに

jerusalem
3月、4月は、エルサレムを訪れる時です。今日はみなさんご存じのように枝の主日ですね、
ですからわたしたちは今日、エルサレムを訪れましょう。そして、イエスとともに、聖週間に入っていきましょう。
心をこめて、イエスに近づき、イエスとともに歩みましょう。そして彼の受難、復活をたどっていきたいと思います。でも私たちは一人ぼっちではありません、いっしょにイエスの後に従って歩んでいくのです。この「いっしょに」とは「教会」を意味します。そして教会の中には私たちを導いてくれる導き手がたくさんいます。
今日は、そんな導き手の一人、マリー・エウジェンヌ師をご紹介します。彼は、彼とともにイエスの後に従っていくよう、導いてくださいます。
でも、こうしてイエスに従っていこうとする時、わたしたちの心には、こんな疑問が浮かびます。
「わたしにはそんなことが、果たしてできるのだろうか?」
「この欠点だらけの私が、イエスに従うなど、できることなのだろうか?」

洗礼とは?

実は、私たちは洗礼を受けたことによって、イエスに従っていくために必要な全てのものを持っているのです。なぜなら、洗礼を受けたということは「イエスの神秘の中に沈められた」ことだからです。洗礼の時に私たちはイエスの死と復活の中に沈められ、そこから引き出されました。ですから私たちはみな、イエスに従っていくことができるのです。そして洗礼の恵みは、私たちをキリストに似た者にしてくれます。
それはまるで、私たち一人ひとりが小さなキリストであるかのようです。クリスチャン、キリスト者であるということは、文字通り、小さなキリストであるということです。ですから、マリー・エウジェンヌ師は、よく洗礼について語り、洗礼というものがどれほど偉大で素晴らしいかについて語ったのです。洗礼は私たちを神の命に参与するもの、神の命に交わっていくものとさせて下さいます。ただ、それはとても神秘的なことで、私たちには理解のできないことです。それは私たちのうちで、私たちを通って行なわれることだからです。
洗礼によって私たちはキリストに学ぶことができます。学ぶことで、私たちはキリストにますます似た者になっていくことができます。それは一人ひとり違うやり方で行なわれます。一人ひとりがそれぞれのやり方でキリストに似た者となるように招かれています。そしてそれは、誰にも真似のできない、一人ひとりに特有のものなのです。ですから、洗礼の時に頂いたこの恵みを、だんだん開花させていかねばなりません。では、これからキリストの後に従っていきましょう。そして、彼に従って歩むことを恐れないようにしましょう。

キリストを知ろう!

では、どんな準備をしたらキリストに従っていくことができるのでしょうか。最初にまず必要なことは、キリストについて知りたいと思うことです。そしてもっと知りたいと願うことです。もちろん、私たちはキリストのことを多少なりとも知っています。でも、今自分が知っていることに、決して満足してはならないのです。それは当然のことで、誰かを愛するときには、その人をもっと知りたいと望むのと同じです。
ですからマリー・エウジェンヌ師はよく聖書を読み、特に福音書を研究しました。福音書のどんな小さなことがらにも目を留めました。なぜかというと、愛する人について、とことん知りたいと思ったからです。今日、私たちは、枝の主日から聖週間に入ります。主に向かって「私はあなたをもっと知り、あなたに従っていきたいのです」と言いたいと思います。「私にあなたのみ顔を示してください」と。神は神秘です。ただ、神秘であるということは私たちが知ることができない方だということではありません。いくら知っても知り尽くすことができないという意味です。イエスを私たちの思いの全て、心の全て、知性の全てをかけて知っていきましょう。ここに描かれているイエスが愛する弟子、ヨハネのように・・。

信仰とは?

yohaneこの愛された弟子、ヨハネはイエスの胸の上に頭をもたせかけた人です。私たちも人を愛する時に、本当にその人のことを知りたくなります。そして次に、必要なのは信じることです。知性(知ること)と意思(愛すること)は、それだけでは足りないのです。つまり、信じること(信仰)こそが神の中に入って行くことができる力を持っています。神のことを知ることができるのは信仰によってなのです。
マリー・エウジェヌ師はよく、信仰について語りました。信仰とは、神から与えられたタレント(才能)のようなものです。神から私たちへのプレゼントです。神に向かっていくことができる力を秘めたプレゼントです。神のうちに入って行くことができるプレゼントです。信仰は本当に力のあるもので、神を私たちに与えてくれます。

マリアと共に

まず、キリストを知ろうと願うこと、次に、信仰を持って神に近づくこと、そしてそのためには私たちにはお母さん(マリア)がいます。私たちはエルサレムには独りぼっちで行くことはできないのです。子どもがよくそうするように、私たちはお母さんに手を引かれてエルサレムに行く必要があります。マリアは私たち一人ひとりにとって、お母さんだからです。マリアをお姉さんと思う人もいるでしょう。
そしてマリアがいるところには必ず聖霊がいます。聖霊も私たちがキリストを発見し、キリストに従うことを助けてくれます。祈ることを教えてくれるのも聖霊なのです。聖霊は歩み続けることを教えてくれます。決してがっかりすることなく。この人生には霧がかかることも、寒い時も、苦しいこともたくさんあります、でも、私たちはマリアに手を引かれてキリストに従っていくことができます。これから一日ずつ、聖木曜日から復活の日までをたどっていきましょう。ともにキリストにまなざしを注ぎつつ・・。
(つづく)

宜しければこちらも↓ エマヌエル神父様の講話(画像つき音声)
【画像つき音声】 エマヌエル神父様講話 ≪慈しみの神≫との出会い (午後の講話) 2015年12月29日