イエスの聖テレサ(アビラ)の祝日に 伊従 信子 10月15日

2017年10月14日

テレサ 慈しみ

神の慈しみとテレサ

1562年マドレ・テレサがすでにキリストとの「霊的婚約」の円熟期に入っていたころ、ドミニコ会士ガルシア・デ・トレド師は、テレサの念祷方法や、主から受けた恵みを自由に書き記すようにと命じました。3年後の1565年に書き終えたのが、現在わたしたちが手にする『自叙伝』です。日本語訳の巻頭には「神の慈しみの書」と書き記されています。

テレサ自身は晩年に「この本のタイトルを『神の慈しみについて』と名付けた」といわれています。神の慈しみがテレサの全生涯にわたっていたとの回想なのでしょう。『自叙伝』のはじめに自分の「罪や悲しむべき生涯に関しては控えめにするように」と命じられたとテレサは書いています。

「回心して主に立ち帰った聖人たちは、一度神に召されてからは、もはや神に背くようなことはしなかったのに、自分はそれと反対で、もっと悪くなったばかりか、主がくださる恵みに逆らおうと工夫したようにさえ自分には思われる。それは恵みを受ければ、より多く神に仕えなければならないのが恐ろしく思われたからだった」とも明かしています。

受けた恵みに対して、わずかでも主に応えられない自分の弱さ、みじめさについて自由に語りたかったとテレサ。

彼女は二十歳で修道生活に入ってからの「祈りの生活」神との一致に至る道程を、ジグザクに歩んできました。テレサの決定的回心の機となる1554年、テレサは「傷で覆われたキリスト像」と出会いました。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために贖いの供え物として、おん子を遣わされました。ここに神の愛があるのです」(Ⅰヨハネ4・10)。

テレサはこの神の無償の愛と出会い、徹底的にその愛に応えようとします。

テレサにとって祈りは「自分が愛されていると知っているその方との愛の語らい」であると書いてます。

そして、テレサにとっての謙遜とは愛である神に向き合った人間の無であり、神の慈しみの愛と人間の罪・無の二つの深淵はともに深まっていく淵なのです。ですから神との一致に至る道を行けば行くほど、中央の住居に近づけば近づくほどに自分の罪・無でしかない存在はあらわになり、その存在を慈しんでくださる神の愛の深さを見出すことになります。ここに人間の真の姿、人間を慈しんでくださる神の愛を称える神の子の真の姿があります。

 

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「疲れを知らない使徒」テレサと「小さい道」

テレーズの小さい道と「比類ない神秘家」であり「疲れを知らない使徒」テレサの道とは一見なんとかけ離れた神への道のようです。しかしその根底を流れているのは、真水、神の慈しみの愛です。

「比類ない神秘家」「疲れを知らない使徒」といわれるテレサの使徒的働きの秘訣は、一つのダイヤモンド、あるいはたいへん透明な水晶と彼女が例えている、この神の慈しみの愛であると言えるでしょう。神からの光を受けて書きだす前に、テレサはまず自分の貧しさを体験します。

「わたくしにとっても、自分が知りもしないことを書くのは、しんぼうがいることです。本当に、時々わたしは、何を言うのか、何処からはじめるのか全然分からずに、まるで「白痴」のように紙を広げることがあります。」『城』2・7

マドレ・テレサは繰り返します。自分は「世界中で最も役に立たないもの」「わたしは何もしませんでした」「主がすべてをされたのです。」「自分が無であること、必要に応じて手に宝を入れてくださるのは神さまです」しかし「主は寛大な霊魂を探す神、自分に信頼しない謙虚なものを愛する神」だとも強調しています。

「愛は実行で証明されなければならないのです。・・・娘たちよ、この愛は空想の産物であってはなりません。実行で証明されなければならないのです。とはいえ、主がわたしたちの業を必要となさると考えてはいけません。ただ、わたしたちのしっかりさだまった意志が必要なのです。」『城』3―1・7

21世紀に入り、わたしたちは様々な分野で人間が果たしていく素晴らしい発明、発見、開発を目の当たりにしています。確かに人間は、無限・永遠である神を自分の手中に握りしめてしまったかのような錯覚に生きてしまう・・・造られたものの謙虚さをわすれて。

4世紀を隔て、テレサは、「神の慈しみをとこしえにうたい、主のまことを世々に告げよう」と今、私達に歌っています。21世紀を生きるわたしたちもテレサの後を慕って「神の慈しみはとこしえに!」と平凡な日常生活で歌いはじめることができますように。

わたしたち自身がどんなに小さな存在であっても神のいつくしは輝き出ます。
ちょうど陽が昇るともに一滴の水滴の中にも太陽の光が輝きはじめるように。
ちょうど神の慈しみの愛の輝きをはかない命が輝き出すように。

わたしたちも小さな存在でありながら神の慈しみの愛を存分に吸い込んで、その輝きで神不在の闇を照らしていけますように。

ノートルダム・ド・ヴィ
伊従 信子