≪NDVアーカイブ≫ 2012年6月 -テレーズと神のいつくしみの愛-(後編)奉献の意義

2020年2月2日

今回は2012年6月6日に掲載しました 『テレーズと神のいつくしみの愛 後編』をご紹介します。執筆者:伊従 信子(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

後編の今日は 『奉献への意義』 です。

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まだ正義の神の観念が色濃かった頃、罪人たちの受けるべき罰を、自分が引き受けようと、神の正義に生け贄として身を捧げる人々がいました。リジューのカルメルにも、神の正義に生け贄として身を捧げ、三十三年間苦しんだ後亡くなった十字架のマリーがいました。またテレーズが深く尊敬していたメール・ジュヌヴィエーヴもそのような苦しい道を生きた人でした。若いテレーズは、このような聖なる方々の生き方に尊敬しても、共感できませんでした。テレーズが直観的にとらえた神は愛の神だったからです。

神さまの完全な徳性の一つ一つを特に崇めるために、いろいろな生き方をしている人がいますが、自分のために神さまは無限のあわれみを下さったと、自叙伝の中でテレーズは言っています。

それで私は、このあわれみを通して、神さまの他のすべての完全さを
眺め、礼拝します・・・そうすると、そのすべては愛に輝いて見え、
正義さえも(たぶん他の完全さよりもなお一層)愛に包まれているように
思えます・・・

正義さえも愛をまとっているように見えるとは、いかにもテレーズらしい表現です。ある日、副院長に、「多くの人を恐れさせる神の正義こそ私の喜びと信頼のもとです」と語りました。なぜなら神は正義なので、私たちの弱さ、人間本性のもろさを完全に知り尽くしておられる。だからその正義に信頼すれば、何も恐れることはないとテレーズは言うのです。放蕩息子のあやまちを、あれほどのいつくしみをもって許された限りなく「正義である神」のあわれみの愛にテレーズは感嘆します。私たちの貧しさ、惨めさ、弱さをすべてよく知っておられるので、それを私たちが認め、神の愛に信頼するかぎり何も恐れることはないと強調します。しかし、このいつくしみ深い愛、神の愛は人々に知られていません。テレーズは嘆きます。

あなたのあわれみ深い愛は、至る所で認められず、見捨てられています。あなたは、あふれるばかり豊かにこの愛を、人々の心に注ぎたいと望んでおられますのに・・・。

そこでテレーズは、思いつきました。神の腕のなかに飛び込んで無限の愛を受けようとしない人々に代わって、自分がそのせき止められた神の愛を人々のために受けようと。

もしもあなたの愛に、焼き尽くす生け贄として自分を捧げるものがあれば、あなたはすみやかにその人を焼き尽くされると私には思われます。
そしてあなたは、無限のやさしさのうしおを、もう押さえずにすむことを喜ばれるような気がするのです。

愛が愛されていない、そんなことがあってよいのでしょうか。愛が愛されていない、それは愛するものにとって、何という苦しみでしょう。殉教ではないでしょうか。そのような神の「愛の病」をテレーズは自分のうちに感じとっていました。テレーズがいつくしみ深い愛に生け贄として身を捧げるのは、神の愛を受け、自分が豊かになるためではありませんでした。神の「愛の苦しみ」を和らげるためなのです。テレーズが好んで使う表現、「神を喜ばせる」ためなのです。

私の神、至福の聖三位よ!私はあなたを愛し、人々にもあなたを愛させたいと思います。・・・私は主のみ旨を完全に果たし、み国に私のために
準備された栄光に達したいと思います。つまり聖人になりたいのです。
しかし私にはそのような力はありません。

主よ、あなたが私の聖徳になってください・・・・・・・・
あなたの愛に生かされるために、あなたのあわれみ深い愛に、
私を生け贄として捧げます。どうか私を絶え間なく焼き尽くしてください。
あなたのなかにせきとめられた無限のいつくしみの波を私のうちにみち溢れさせ、私を主の愛の殉教者にしてください。
ー神のあわれみ深い愛に身を捧げる祈りー

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六月九日テレーズは、神がどれほど愛されたいと望んでおられるかをそれまでよりも、もっと深く悟る恵みを得たと自叙伝の中で書いています。

この幸いな日以来、愛は私の中にしみ込み、私をとり囲み、一瞬ごとに、このあわれみ深い愛が、私を新たにし、清め、そこに少しの罪のあとさえ残さないような気がします。

それでテレーズは、この奉献が「私たちが想像できるより以上に重要なものです」と言うのです。私たちに要求されるただ一つの準備、それは私たちがふさわしくない事を謙遜に認めること。けれども、自分の弱さを認め、神の愛に信頼する、これが難しいことなのだとテレーズは強調します。

イエス様を愛し、愛の生け贄となるには、すべてを焼き尽くして変化させる      この愛の働きを受けるには、弱ければ弱いほど、そして、何の望みも徳もなければないほど、よいのです。生け贄になりたい、という望みだけで充分です。ただし、いつになっても貧しく、力ないものであることを承諾しなければなりません。そして、これが難しい点なのです。

これは「私もあなたのように神様を愛せるでしょうか」と問うみ心のマリーに宛てた手紙です。テレーズは、あたかも私たち一人一人に話しかけ、答えているようです。

・・・どうしてそのようなことを尋ねるのですか。・・・殉教したいと言う      私の望みなどとるにも足りません。・・・主のみ心にかなうものは、私が自分の小ささ、貧しさを愛し、主のいつくしみに、盲目的に信頼しきっていることです。

このようにテレーズの「あわれみ深い愛への奉献」には、「幼子の道」、罪人を救うために自ら幼子となられたイエスの福音のメッセージの核心が生きずいています。

(おわり)
文: 伊従信子

-テレーズと神のいつくしみの愛- (前編) 『奉献への招き』 は、ここをクリック