わたしは神をみたい

002アビラのテレサに由来するこの大胆な言葉は、同時にマリー=ユジェーヌ神父の主著の題名ともなっています。「神を見る」ことは人間に約束された最高の幸福であり、人間はそれに向かって歩んでいます。洗礼のときに与えられた恵みにより、わたしたちのうちに住まわれる神ご自身が、今この時から、人間が神を見つけ、知り、愛することができるようにはからってくださいます。わたしたちが生きる意味と、わたしたちの本当の召し出しはそこにこそあると言えるのです。

以上が、著作の題名と同じ「わたしは神を見たい」という章で述べられている、この本のいわば出発点であり、同時に到達点でもあります。マリー=ユジェーヌ神父は洗礼を受けたすべての人が自分の真の召しだしに気づき、神に向かって歩むことを望みました。そのために、師自らが生きぬいたカルメルの教えを通して人々を導くことを願って生まれたのがこの本です。

神への旅

マリー=ユジェーヌ神父は、アビラのテレサの『霊魂の城』に描かれた、神に至る人間の歩みの様々な段階を、『わたしは神を見たい』の基本的な枠組みとして用いました。テレサはまた、神への旅の確かな杖として、私たちに「沈黙の祈り」を教えてくれます。信仰によるキリストとの出会いである祈りは、祈る人の愛の成長を促すだけでなく、人々へ向かう使徒職となって実を結びます。このことは非常に重要です。祈りは決して偏狭な個人的信心ではなく、その本質において「教会」へと向かうものです。マリー=ユジェーヌ神父が、著作の第二部に、「わたしは教会の娘です」というテレサの言葉を当てたのも、わたしたち一人ひとりのキリストとの一致が、「キリストの体」としての教会の建設へと導かれることを示そうとしたからに他なりません。

信仰の道

テレサと並ぶカルメルの教会博士、十字架のヨハネとリジューのテレーズは、マリー=ユジェーヌ神父の著作の中で二人のカリスマがもっとも輝きを放つ位置におかれています。「暗夜の博士」である十字架のヨハネは、信仰が浄化されていく道すじを教えます。わたしたちは毎日の生活のなかで、様々な悩みや苦しみに出会い、時にはそれらに振り回されながら生きています。一見したところ不条理で無意味に思えるこれらの苦しみが、神の光のなかで復活につながるものとなることを、エウジェンヌ師は十字架のヨハネと共に示します。その筆致は、師がいかに「心の深みで十字架のヨハネと共に生きていた」かを見事に垣間見せてくれるものです。

希望のメッセージ

マリー=ユジェーヌ神父が幼きイエスのテレーズによって私たちに示そうとしたのは、福音的な「希望」のメッセージです。短い生涯の中でテレーズが生きぬいたイエスへの全面的な委託と貧しさを、師はわたしたちにモデルとして示します。テレーズこそ、二人の偉大なカルメルの創立者の教えを、現代のわたしたちが生きる際のモデルなのです。師が「幼な友達」と呼んだテレーズは、二一世紀を生きるわたしたちを「幼子の道」へと招いています。

カルメルの宝

001このように、マリー=ユジェーヌ神父は『わたしは神を見たい』の中で、カルメルの偉大な霊性の大家たちの教えを統合し、真摯に神を求めるすべての人々への貴重な宝を残しました。しかし、本書は何よりも師の人生における深い霊的体験から生まれたものです。聖人たちの教えに対する洞察の深さは、師自身がそれを生き、そこに糧を見出していたことを物語ります。さらに、行間には聖霊と聖母に対する独自の体験的知識がうかがわれ、マリー=ユジェーヌ神父もまた霊性の大家のひとりとして数えられることを示しています。

「この本を通して、信仰による沈黙の祈りと、人々への奉仕のためになされる日々の慎ましい愛の行為が、教会にとってどれほど実り豊かなものであるかを、聖テレサがあなたに示してくださいますように。」