主よ祈りをおしえてください(5)祈りの時間

2010年8月14日

前回は「祈りの場所」についてお話ししました。キーワードは、「隠れる」でした。隠れておられる御父とともに隠れるとは、たんに「空間」としての場所に身を隠すだけではなく、わたしたちの本当の姿、ありのままの姿から目をそむけさせ、御父の子供としてとどまることをゆるさないすべてのものから「隠れる」ことでした。

カルメル会の福者、三位一体のエリザベットは「隠れる」名人でした!どこであろうと、何をしていようと、主とともに隠れることができたのです。彼女は言います。

 

「どうぞ主のうちに身を隠してください。心の奥深くに孤独の場をつくり、そこに主とともにとどまり、決してそこから離れないようにしましょう。」

 

「わたしの中には主がお住まいになる孤独の地があります。そして誰もわたしからそれを奪うことはできません。」 (『いのちの泉へ』伊従信子 訳・編 ドン・ボスコ社)

 

エリザベットにはこのままとどまってもらい、今回は「祈りの時間」について考えてみます。おそらく「祈りの時間」についてはたくさんのことが言えることでしょう。たとえば、「祈りの時間がない」ということについては、このサイトの「祈りのQ & A」を参照してください。あるいは、「どのような時間に祈るか」という問いかけには、「もしできるなら、心、体、頭がいちばんさわやかなとき、言い換えると、神様をわたしたちのところにお迎えするのに最適な時間」と答えるでしょう。たとえば早朝、まだ頭も心も、家事や仕事やその他のあらゆる雑多なことで膨れあがっていないとき。あるいは、夕刻、一日の営みが終わり、とにかく一息つけるとき。そのようなときが「祈りのとき」、神様と語り合うのに最適な「とき」なのです。

4ではここでもう一歩進めてみます。『カトリック教会のカテキズム』に、「時の一刻一刻は、神の目には現在です」(600)と書かれています。どういうことでしょうか。神様は、わたしたちが捉えられている「空間」や「時」にしばられてはいません。「永遠の今」である神様は、わたしたちが生きる時間の一刻一刻に、わたしたちに呼びかけ、ご自分の豊かないのちを与えようと望んでおられます。ですから、わたしたちが心を向けさえすれば、平凡な毎日の「今」このときは神様の呼びかけにこたえるためのとき、一瞬一瞬、神に触れ、神の愛に満たされる祈りのときとなりうるのです。そうです、祈りはいつでも可能です。ギューギューづめの電車のなか、猛暑の街中、あるいは人と言い争いをしているときでさえ、一瞬神様のもとに逃れてください。けれど、だからと言って、「わたしはいつも祈っているから特別な祈りの時間など必要ないわ」というのは感心しません。前にも言いましたが、弱い人間にはちゃんとした「祈りの時間」はぜひ必要です。親しい人とつきあうのに、ツウィッターや短いメールだけでは深まりませんね、実際に会ってじっくり話をする時間が必要なのと同じです。

エリザベットにもう一度耳をかたむけましょう。

 

 「近頃あまりにも多くのことがらに追われて過ごしております。いろいろな集まりがまたはじまりました。…このような集まりを神に捧げています。(…)主だけのものとなることを切望している者は、世間のただ中でさえ心の沈黙のうちに主に聞き入ることができます。」

 
あらゆる場、あらゆる時に神様とともにいるように努めること、それが信仰の「生活」です。

文:中山まり ndv