三位一体のエリザベット(4)生と死 主とのかかわり(後半)

2016年8月6日

2010年に掲載しました福者三位一体のエリザベットを再掲載しています。今回は第8回目 執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 伊従信子さんです。

※今年の10月16日に福者三位一体のエリザベットの列聖式がバチカンにおいて行われる事が決まりました。(6月20日バチカン公式発表より)

 

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 主とのかかわりはこの地上において進行中

主はご自分がおられる所にわたしたちもともにいることを望んでおられます。この神の望みはヨハネ福音書にはっきり記されています(ヨハネ17・24)。しかし、それは単に永遠のみ国においてだけではありません。この地上の時からすでに実現されていることをエリザベットは強調します(『光、愛、いのちへ』9p)。というのも、永遠のいのちは、この世からすでにはじまっているのですから。洗礼の恵みとして受けた神のいのち、永遠のいのちはすでにわたしたちのうちにあり、死をもってはじまるのではありません。では、違いはどこにあるのでしょう。その違いはこの地上においては、ただそれが絶えず進行中であるということだけです。信仰のうちに主とのかかわりは死の時まで深まり続きます。

「その決定的瞬間(死)がわたしたちに訪れるとき、神がわたしたちを呼ばれるそのときの状態にわたしたちは永遠に留まるのであり、そのときの恵みの度合いは、まさしくわたしたちの栄光の尺度となるのです。」 『いのちの泉へ』113p

それですから、わたしたちが日々の生活において、「主とのかかわり」を常に深めて生きていくことは大切なことなのです。この重要性を熟知するエリザベットは、それゆえ折にふれて、神の現存「わたしのうちに住まわれる神」について人々に話していました。まだ若いエリザベットは、不治の病、と少なくとも当時言われていたアジソン病にかかり、胃・腸のひどい障害・嘔吐、そしてきわめて激しい衰弱に襲われるようになりました。日増しに体が中から崩れるのを感じると、「死」に関して手紙・黙想ノートに書き残しています。

「・・・・・・<死の神>が鎌で刈り入れをしているのを描いた画を見たことがありますか。それは今のわたしの状態です。あの画に描かれているように、今、その<死の神>がわたしを破滅させていくのを感じます。これは、本性にとって辛いことです。もしこの思いに留まっていたらきっと苦しみに打ちひしがれてしまうに違いありません。これは人間の思いです。それでわたしの魂のまなざしをすぐに信仰の光のもとに開きます。」
『あかつきより神を求めて』132p

人間の本性にとって辛い死への旅の苦しみに打ちひしがれてしまうことなく、エリザベットが心のまなざしを開いた信仰の光にわたしたちもまなざしを向けてみましょう。

つづく
伊従 信子