テレサとテレーズ(9)

2016年7月23日

東京教区カトリック関町教会 テレジア祭2015の企画の一つとして
昨年9月27日に片山はるひが『テレサとテレーズ』というテーマで講話を行いました。
その講話を10回に分けてご紹介していきます。

今回はその9回目です。

テレサとテレーズ

『テレサとテレーズ』(9)
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

神さまと語り合うこと

テレサの祈りの定義をご紹介します。

祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と二人だけで、たびたび語り合う親しい友としての交わりです。         (『自叙伝』8章)

これ以上簡潔な定義はないと思います。ありとあらゆるものがこの中に含まれていきます。とても自由です。ただこの言葉は、大切な鍵を担っています。

まず、《自分が神から愛されていること》。これが結構難しいことです。我々は罪びとなので、もしかすると、隣の人は愛されているけれども私はちょっと無理かも……というふうに思ってしまうことがあるのです。面白いことに、もしかしたら愛されていないのかもしれないと思ったときに良いのは、祈ることです。祈りの中で、神さまが愛であることをじわじわと教えてくださることが多いのです。多くの方が「私なんか祈ってもね……」と思って祈りにいかないのですが、逆なのです。もしそのように思っていらっしゃったら、祈ることを始めてみてください。愛されている、神は愛なのだということを信じていくのです。

そうして、《二人だけでたびたび語り合う》のです。誰かが好きなとき、「この人いいな」と思うとき、その人と話そうと思ったら、10人で飲みに行きましょう、ではだめです。その人とじっくりと二人で話をします。これがテレサの念禱、沈黙の祈りです。さまざまな口に出してする祈りではなくて、心と心で神とともにある祈りです。本当に話したい人とは毎日話したいものです。「じゃあ1年後」という年賀状のようなお付き合いではなく。

 

ありのままに

テレーズは、「私は3分たりとも神さまのことを考えずには過ごしませんでした」と言っています。これはすごいことですが、そこまでいかなくてもいいのかもしれませんが、でも本当に好きな人なら、やっぱり一緒にいたい。本当に私を愛しているということは、祈りはありのままでいいということです。恰好をつけて霊的なことを言わなければならないとか、そんなことはありません。「疲れた」とか「もうこの仕事いやだ」とか、そういうことも神さまに言っていいのです。ありのままのことを言って、神さまと非常にフランクにつながるということです。くどくど言わなくてもいいのです。知っておられるのです。「わかってるよ、仕事でたいへんなんでしょう」と。

わかっている神さまに心の内を言い、もしかしたら神さまにも言いたいことがあるかもしれないから、耳を傾ける。「私はあなたを知っているし、今まで付き合ってきたし、あなたをつくったのは私だから」。だから《親しい友としての交わりです》。これがあれば何でも祈りになります。ですから歩きながら祈ることもできます。ミサのときも、このような土台がなければ、ただ言葉を唱えているだけになってしまいます。このつながりを、なにかのおり思い出していただきたいと思います。

(つづく)

〔2015年9月27日 関町教会聖堂にて〕

まとめ=関町教会広報部