イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために(2) ー 聖木曜日 - 幼きイエスのマリー・エウジェヌ神父と共に 講話:エマヌエル神父様

2023年4月6日

 

エマヌエル神父様イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
~幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に~

講師 エマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)

 

 

 

聖木曜日—弟子達の足を洗うイエス

repasまず、聖木曜日です。マリー・エウジェンヌ師はこの聖木曜日に、最後の晩餐の席に私たちを招きます。これは一番初めの頃の、最後の晩餐を描いたフレスコ画です。ローマのカタコンベの中に描かれていた絵です。このテーブルはこちらに開かれていて、まるで私たちを手招きしてくれているかのようです。私たちは本当にこのテーブルに招かれているのです。このテーブルに招かれて、キリストに愛されることに招かれているのです。
イエスは弟子たちの足を洗います。イエスは私たちの足も洗うことを望んでいます。ある聖木曜日に、師はこのように祈りました。『イエスよ、私を清めてください。イエスよ、これが私の持っている傷です。私の心、私の全てをあなたに捧げます。私を清め、洗ってください。』
ミサの中で、キリストは自分の体と血を私たちに下さいます。その体と血とは、イエスご自身が、私たちにご自身をゆだねられるということです。これは「私はあなたのもの」ということです。ご自分の命を私たちにくださいます。それはすばらしいことです。
もう一つの祈りの中で、マリー・エウジェヌ師はこのように言います。『あなたはご自分を与えられることに喜んでおられます。それがあなたの愛のしぐさなのだ、と。永遠の昔からあなたは私たちを愛してこられた。そして、極みまで、最後まで私たちを愛してくださる。全てを与えるまで・・。』
そんな時、私たちはどのような態度をとったらよいのでしょうか?そのときはただ、空の手を広げるだけです。この神が与えてくださる時、私たちに必要なことは受け取ることです。この与えられるものに開いている事です。そのためには貧しい人の心を持っていなければなりません。人に物乞いをする、そんな心を持っていなければならないのです。ですからこの聖木曜日に、人に物乞いをする人、貧しい人が満たされるといえます。『主よ、私の愛を広げてください。あなたが下さるものを受け取ることができるほどに、大きく広げてください。』

 最後の晩餐

そして最後の食事の時にイエスは沢山のことを語りました。特に使徒ヨハネが福音書の中に書き留めています。そしてイエスの親密な話を私たちに伝えてくれるのです。そこに書かれている言葉には真実の響きがあります。イエスは自分の一番深い部分にある真実を語られるのです。たとえば、私たちは枝であって、そのぶどうの木はイエスであるということ、それはイエスなしでは私たちは何もできないという真理を示しています。なぜなら、ぶどうの枝は切られて捨てられてしまいます。ということは私たちもぶどうの枝が切られるように、清められなければならないことを意味しています。試練もあるでしょう。でもそれは新たな実を結ぶためなのです。イエスは本当のことをここで弟子たちに語られます。なぜなら、愛と真理は共に歩むものだからです。そしてキリストはここで新しい福音を私たちに告げられます。素晴らしい贈り物をしてくださるのです。それが聖霊です。

私の友、聖霊

聖霊について語ると、マリー・エウジェンヌ師はとどまることがありませんでした。まるで聖霊と共に生きていたかのようです。友達と一緒に暮らしていたかのように・・。最期のときに、彼は人々の前で告解をしました。その最後の告解で、「私は聖霊を本当に信頼しなかった」、これが彼の罪の告白でした。しかし、聖霊はいつも私たちとともにおられる方です。毎日の生活の中で・・。聖霊は私たちをとても注意深く、愛情深く見守っている方です。私たちの内側から働きかけてくださる方です。まず、みなさんが今日、ここにいらっしゃっている、ということが聖霊の働きです。そしてこのノートルダム・ド・ヴィという会で、全てをなさったのは聖霊です。みなさん一人ひとりの中で今も聖霊は働き続けています。あなたたちの愛する友達、家族の中でも働いておられます。師の祈りは、この聖霊に対する信仰を願うことでした。たとえばこのように語っています。愛の霊よ、わたしたちのうちにおられる。どうそ私の主となってください。私たちの主人となってください。そして私たちがいつもあなたと共にいることができるように。そしてあなたに本当に信頼することができるようにしてください。沈黙と、時に祈りの中で、何も感じることがないときにも・・。

ゲッセマネの園

経験によると聖霊は非常に力強い方であるのに、ひそやかな方ともいえます。あまり騒ぎ立てない、そういう方です。一つのイメージとして、これはほとんど感じることができない息吹のようなものだといえます。この聖霊をイエスは私たちに与えようとなさったのです。私たち一人ひとりが自分にとって親密なやり方で、聖霊を頂くことができるように。この食事が終わり、弟子たちへの話が終わった後で、主はゲッセマネの園と呼ばれたオリーブの園へ弟子たちと共に行かれます。オリーブの園でイエスは再び祈ります。でもこの時は非常に苦しみに満ちた祈りでした。マリー・エウジェンヌ師はよくこのゲッセマネの園でのイエスの祈りについて黙想をしました。そして彼の態度はいつも同じです。いつもイエスに近づこうとします。イエスと共にいて、イエスを眺めるために、イエスの言葉を聞こうとして、イエスに近づこうとします。
そしてある木曜日の夜、彼はこのように祈りました。
「イエスよ、私はあなたから離れたくないのです。あなたに従わせてください。あなたはここでうめき、嘆いておられる。あなたのそばに近づくと、あなたが血の汗を流して祈っておられるのが見えます。」

イエスの苦しみ

この苦しみに満ちたゲッセマネの園の祈りは、それはイエスの無限の清さとこの世の罪の出会いの結果でした。イエスはまさに神の子羊だったのです。そして私たちの罪を背負って下さったのです。彼が背負ったのは私たちの罪でした。過去と現在と未来の全ての人類の罪でした。この全ての罪を彼はご自分で担われたのです。それはまさに彼自身が大罪人になったかのようでした。そして、その祈りの中で彼は一人の哀れな罪びとのような姿をとります。でもその時、彼ご自身が世の罪を引き受け、世の罪を取り除く神の子羊だったのです。そして我々から罪を取り除いて下ったのです。私たちもまた、イエスの姿を眺めるたびに、自分もまたイエスの姿に倣うように招かれています。イエスが生きられたこと全てを私たちも生きるように、と招かれているのです。もちろん私たちはイエスではないので、私たちの限界の中での話ですが。そしてまた師はこのように祈りました。
「イエスよ、あなたにつながっていたいのなら、あなたは私があなたの苦しみを分かち合うことにも招いておられます。あなたと共に救い主でありたいのなら、あなたの苦しみによってでしか、できないのです。」
祈ることによって、苦しむことによって、私なりのやり方でこの受難の日々を生きることによって・・・。
この聖木曜日の祈りの後に金曜日が始まります。この日もマリー・エウジェンヌ師の望みは変わりません。ここでもイエスに近づき、イエスに従って生きたいと望むのです。そしてすぐ側でイエスの姿を見たいと願うのです。どんな小さな表情も見逃すことのないように・・・。

つづく