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	<title>ノートルダム・ド・ヴィ（ノートルダムドヴィいのちの聖母会）</title>
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		<title>「暗夜」を照らす炎  　－ 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ　－（１）現代の闇</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2157</link>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 10:37:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[カルメルの霊性]]></category>

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		<description><![CDATA[これから８回にわたり、片山はるひ （ノートルダム・ド・ヴィ会員）による
「暗夜」を照らす炎  － 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ－

 を連載いたします。なお、この講話は『危機と霊性』
（日本キリスト教団出版局、2011年）に収録されているものです。
 
第１回目の今日は　 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="TEXT-ALIGN: center">これから８回にわたり、片山はるひ （ノートルダム・ド・ヴィ会員）による</p>
<p style="TEXT-ALIGN: center"><strong>「暗夜」を照らす炎  － 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ－</strong></p>
<p style="TEXT-ALIGN: center">
 を連載いたします。なお、この講話は『危機と霊性』<br />
（日本キリスト教団出版局、2011年）に収録されているものです。</p>
<p style="TEXT-ALIGN: center"> </p>
<p style="TEXT-ALIGN: center">第１回目の今日は　『現代の闇』　をお送りします。</p>
<p> </p>
<p style="TEXT-ALIGN: center"><img class="aligncenter size-large wp-image-2170" title="16  P1020114" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/05/16-P1020114-400x300.jpg" alt="16  P1020114" width="154" height="115" /></p>
<p> </p>
<p> 現代の危機がひとつの「闇」であることを疑う人はいないことでしょう。先の見えない不透明性、生活の全てのレベルに広がった漠とした不安観、ともすれば絶望の闇の中で迷い子となってしまうような雰囲気が世界中に満ちています。教会もまたこのような社会の闇の中で、嵐にもてあそばれる舟のように様々な危機に直面しつつその旅路を続けてきました。</p>
<p> </p>
<p>　ですが、教会の歴史をひもとくならば、この一見もろく見える舟がいつの時代も嵐の中を航海しつつ進み、その舟の船首を光で導いてきたのは、それぞれの時代の聖人達であったことがよくわかります。ヒッポの聖アウグスチヌスを初め多くの教父、殉教者達、聖ベネディクトゥス、十三世紀の聖ドミニコと聖フランシスコ、十六世紀の聖イグナチオと聖フランシスコ・ザビエル、そして、アビラの聖テレサと十字架の聖ヨハネによる跣足カルメル会の改革、十九世紀後半から二十世紀にかけて、数多くの聖なる宣教師や聖人達の活躍。教会という今にも沈没しそうな船が今まで沈まずにすんだのは、これら聖人たちの存在と活躍によるといっても過言ではありません。</p>
<p> </p>
<p>　では現代の闇を照らす光はどこにあるのかと目を転じて見たときに、今年、生誕１００周年を祝うマザーテレサとマザーが自らの霊性として選び取ったリジューの聖テレーズの霊性は、特に注目に値するように思われます。</p>
<p> </p>
<p>　マザーテレサ自身、自らの召命について次のように述べています。</p>
<blockquote><p> <img class="alignright size-medium wp-image-2176" title="090 Soleil couchant Ventoux" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/05/090-Soleil-couchant-Ventoux1-200x150.jpg" alt="090 Soleil couchant Ventoux" width="160" height="120" /></p>
<p>「私が聖人になることがあるなら、暗闇（darkness）の聖人になることでしょう。この地上で暗闇に沈む人々に光りを灯すために、天国にはいないことでしょう。」</p>
<p> </p>
<p> </p></blockquote>
<p>　これは、近年発表されたマザーの手記、Mother Teresa Come be my light　のエピグラフに掲げられた言葉です。さんさんと輝く神の愛の光を受けてほほえむ暖かいおかあさんといったイメージのマザーからはまるで想像できない言葉です。この手記、内面の記録は発表された際に、タイム誌がややスキャンダラスなタイトル「マザーテレサの信仰の危機(Mother Teresa’s crisis of Faith)」で紹介したこともあって、世界中に一種の衝撃を与えました。ですが、それは霊性の知識のないジャーナリストがマザーの言葉を表面的に取り、その真の深い意味を全く読み取れなかったための誤解でした。今では、霊性の専門家達からの解明と解説がほどこされ、マザーの経験した闇、すなわち「暗夜」の意味が明らかになっています。</p>
<p> </p>
<p>　　マザーの霊性がリジューの聖テレーズの霊性に基礎をおいていることはマザー自身の証言からも明らかであり、今までもよく知られてきたことです。 ですが、この「暗夜」というマザーテレサの霊性の真の深みは、遡って16世紀のカルメル会士、十字架の聖ヨハネの教えに照らしてでなければ、本当に理解することができないということが現在ようやく明らかになってきました。</p>
<p> </p>
<p>　　聖人達のこのような霊性上の問題は、特殊などこか雲の上のことがらに思われるかもしれません。ですが、聖人たちとは、実はその時代の人間とその問題を最も良く知っていた人たちです。真の神秘家たちは皆驚くほどに、人間的であり、人間理解の師です。なぜなら神に近づいた人こそが、人間の神秘にも近づくことができるからです。</p>
<p> </p>
<p style="TEXT-ALIGN: left">　もちろん聖人達の生き方を模倣することやかれらの通った暗夜を、そのまま我々は追体験することはできません。ですが、現代の闇をどのように受け止め、それを「暗夜」として生きることができるのかというヒントは、彼らの体験と著作から学ぶことができます。以下そのような視点からこの3人の聖人の生涯と著作に学びたいと思います。</p>
<p style="TEXT-ALIGN: right">（つづく）<br />
文：片山はるひ</p>
<p style="TEXT-ALIGN: right">次回掲載は６月中旬の予定です。</p>
<p style="TEXT-ALIGN: right"> </p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>カルメルの霊性　神と親しく生きるために（２５） －聖霊－</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2141</link>
		<comments>http://www.ndv-jp.org/news/2141#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 15 May 2012 15:00:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[カルメルの霊性]]></category>

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		<description><![CDATA[
 
生まれつきの素質が何であろうと
大して重要ではない
 
わたしたちにとっての富
それは聖霊にとらえられ
この愛の霊によって
変えられることである　　　　　　　　　
　　　　
～　尊者マリー・エウジェンヌ神父　ocd　～
 
マリー・エウジェンヌ神父は十四歳の頃、ある日石切り場で石を切っている人 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><img class="size-large wp-image-2147 aligncenter" title="シャボテンの花" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/05/3e493ef9bb3e56a59fbe51f15173ffa7-400x300.jpg" alt="シャボテンの花" width="168" height="126" /></p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p style="text-align: center;"><strong>生まれつきの素質が何であろうと</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>大して重要ではない</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong> </strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>わたしたちにとっての富</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>それは聖霊にとらえられ</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>この愛の霊によって</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>変えられることである　　　　　　　　　</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>　　　　</strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>～　尊者マリー・エウジェンヌ神父　ocd　～</strong></p>
<p> </p>
<p>マリー・エウジェンヌ神父は十四歳の頃、ある日石切り場で石を切っている人たちに出会いました。その時、少年アンリにはこの世で一番つらい仕事のように思えました。それでそのつらい仕事に挑戦してみようと思い、石を切る練習をしたということです。でも思うように出来ませんでした。石を切る前に道具を壊してしまったのです！　この体験で一つの事を学びました。あのように石を切ること、あるいは偉大な人物になること、いずれにしても、それが一体なんなのだろうか・・・所詮人間的レヴェルでの偉大さ、すばらしさ、困難への勝利なのだと。自分にとって、それは、どっちでもよいことなのだということをアンリはさとったということです。</p>
<p>十四歳の少年アンリのこの洞察は、晩年にはマリー・エウジェンヌ神父の次のような確信となっています。</p>
<blockquote><p>　　生まれつきの素質が何であろうと大して重要ではない。</p>
<p>　　わたしたちにとっての富、それは霊にとらえられ、</p>
<p>　　この愛の霊によって変えられることである。</p>
<p> </p></blockquote>
<p>今年は五月二七日が聖霊降臨の祝日です。「父の約束されたものを待ちなさい」と言われたイエスに従って、弟子たちと祈りのうちに聖霊が降るのを待たれた聖母とともに、わたしたちも聖霊を待ち望みましょう。</p>
<p> </p>
<p style="text-align: right;">　　聖霊来てください。わたしたちの心を訪れ、あなたの造られたこの心を、天の恵みで満たしてください。　<br />
～　ベニ・レアトル聖霊に対する賛歌より～</p>
<p>　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　伊従　信子</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ノートルダム・ド・ヴィ</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>カルメルの霊性　神と親しく生きるために（２４）　－マリアの月－</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2130</link>
		<comments>http://www.ndv-jp.org/news/2130#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 07 May 2012 15:00:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[カルメルの霊性]]></category>

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		<description><![CDATA[子どもが　母を愛することができるのは
母が　子供とともに泣き
子供の苦しみを　背負うから
 
ああ　わたしの愛するおん母よ
わたしを引き寄せようと
あなたは　涙を流された
 
わたしが　あなたの子だと信じることは
そんなに難しいことではありません
なぜなら　
あなたも　わたしと同じように
苦しみ　そ ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>子どもが　母を愛することができるのは</strong><strong></strong></p>
<p><strong>母が　子供とともに泣き<img class="alignright size-large wp-image-2137" title="img016" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/05/img0161-251x400.jpg" alt="img016" width="201" height="320" /></strong><strong></strong></p>
<p><strong>子供の苦しみを　背負うから</strong><strong></strong></p>
<p><strong> </strong></p>
<p><strong>ああ　わたしの愛するおん母よ</strong><strong></strong></p>
<p><strong>わたしを引き寄せようと</strong><strong></strong></p>
<p><strong>あなたは　涙を流された</strong><strong></strong></p>
<p><strong> </strong></p>
<p><strong>わたしが　あなたの子だと信じることは</strong><strong></strong></p>
<p><strong>そんなに難しいことではありません</strong><strong></strong></p>
<p><strong>なぜなら　</strong><strong></strong></p>
<p><strong>あなたも　わたしと同じように</strong><strong></strong></p>
<p><strong>苦しみ　そして死ぬのだから・・・</strong> </p>
<p>～　テレーズの詩　～</p>
<p> </p>
<p>新緑の美しい五月には、日本だけでなく多くの国で＜母の日＞を祝います。日本でもカネーションの花々が町を彩り、母の日のプレゼントの広告が目を引くようになります。教会の伝統では、五月をマリアの月、母マリアへの「子」としての特別な想いを暖め、育むときとしてきました。</p>
<p>五月十三日はテレーズがほほえみの聖母に＜不思議な病＞をいやされた記念日にあたります。母マリアと日々親しく生きていたテレーズは、二四歳で死ぬ前にしなければならないことがあると言って長い聖母賛歌を詠い残しました。＜なぜ　わたしはあなたを愛するのか、おお　マリアよ！＞と題するその詩のなかでテレーズはマリアがこの地上でわたしたちと同じように信仰に生きたことを強調しています。母というものは、何よりもまず子の喜び、子の幸せを願い、子の苦しみ、悲しみを子以上に感じるもの。それでテレーズは、「わたしたちはマリアさまよりもっと幸福です。マリアさまには、わたしたちが慕うような聖母がいらっしゃらないから」と言っています。母マリアに喜ばれ、悲しまれる「子」としての実感からの言葉でしょう。</p>
<p>マリアの月、五月の日々母マリアとのかかわりが深められる日々でありますように。</p>
<p>　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　伊従　信子</p>
<p><strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ノートルダム・ド・ヴィ</strong><strong></strong></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>カルメルの霊性　（特別編）　テレーズと聖母</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2118</link>
		<comments>http://www.ndv-jp.org/news/2118#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 28 Apr 2012 05:31:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[カルメルの霊性]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ndv-jp.org/?p=2118</guid>
		<description><![CDATA[ 

１８９７年春、２４歳のテレーズは、結核におかされ、余命幾ばくもないことを十分承知していました。「わたしには、死ぬ前にまだしなければならないことがあります。それは聖母についてのわたしの考えを歌いあげる夢を実現することです」と姉セリーヌに打ち明けていました。 この「夢」を代母である長姉マリーは感知 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"> </p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2124" title="N.P. N.M. Venawque　etｃ184" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/04/65159df61ef0dab3a9a9de9ba4355b81-149x200.jpg" alt="N.P. N.M. Venawque　etｃ184" width="134" height="180" /></p>
<p>１８９７年春、２４歳のテレーズは、結核におかされ、余命幾ばくもないことを十分承知していました。「わたしには、死ぬ前にまだしなければならないことがあります。それは聖母についてのわたしの考えを歌いあげる夢を実現することです」と姉セリーヌに打ち明けていました。 この「夢」を代母である長姉マリーは感知していたのでしようか。同じ年の５月、マリアの月にあたり、「マリアについての想い」を書き残してほしいとテレーズに願ったのです。 この依頼を受けて「おお マリアよ なぜ わたしはあなたを愛するのか」と題する二五節の詩を書き上げました。</p>
<p>　この小さな賛歌は、マリアについてのわたしのすべての考えと、もしわたしが司祭であったなら説教したいと思うことを歌っています。 １８９７年８月２１日</p>
<p> </p>
<blockquote><p>おお！ わたしは歌いたい！</p>
<p>マリアよ なぜわたしがあなたを愛するのか</p>
<p>なぜあなたのやさしいみ名が心を躍らせるのか</p>
<p>なぜあなたのこの上ない偉大さに思いを巡らしても</p>
<p>わたしの魂は 恐れおののかないのかを！</p>
<p>あなたがおられるのは 崇高な栄光の中</p>
<p>あなたの輝きは あらゆる聖者に注がれる</p>
<p>けれども マリアよ あなたのみ前で</p>
<p>わたしは 目を伏せたりはいたしません！</p></blockquote>
<p> </p>
<p>テレーズは亡くなる一ヶ月ほど前、看病中の姉アニェスに、それまでに聞いたマリアについての説教の中で自分の心に響いたものは、なにもなかったと正直に語り、次のように付け加えました。</p>
<blockquote><p>　わたしは聖母について説教するために<strong>どれほど司祭になりたい思った</strong>ことでしょう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（強調は筆者）</p></blockquote>
<p>Ⅰ テレーズのマリアについての<strong>「説教」</strong></p>
<p>主よ、み言葉を聞かせてください。＜真理とはなんですか＞とのわたしの問いにどうぞ答えてください。そして物事をありのままに見、何物にも目をくらまされることのないようにしてください。</p>
<p>テレーズは、いつもこのように祈っていました。「死後、主は天使たちを伴って迎えに来られるでしょう」と言って慰めようとする修道女に、テレーズはきっぱりと答えます。「わたしを養うもの、それはただ真理だけです」。このように真理にのみまなざしを向けているテレーズが、種々の装飾をつけたマリア像にへきえきとしたとしても不思議ではありません。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>マリアさまに関して本当でもないこと、知りもしないことを話してはいけません。 </p>
<p>聖家族についてわたしのためになることは、よく人々が想像したり、話したりする</p>
<p>ようなものではありません。それは、ごく普通の生活であったということです。</p>
<p> </p></blockquote>
<p>マリアの真の姿と生活が知られていない。テレーズはその真実を知らせるために司祭になりたいと思っていました。聖母に関してテレーズはなにを洞察し、なにをわたしたちに伝えたかったのでしょう。</p>
<p> </p>
<p><strong>隠れた生活</strong></p>
<p>「マリアさまについてのわたしの考えをあらわすのに、ただの一度で十分」というテレーズのメッセージは、人々に知られない聖母の隠れた生活を隠れたものとして伝えるというあまりにも簡潔なものでした。たとえば、三歳のマリアは、すでに神への愛に燃え、並々ならない熱心をもって神殿でご自身をささげられたとテレーズはよく聞かされていた。「実際には、両親にしたがって言われるままに神殿にお参りに行らしたのではなでしょうか」とテレーズは臆せず自分の考えを述べています。そして、詩の中で、恵みにみちた母マリア、選ばれたものたちの女王は、ナザレで全く貧しく生きておられたと歌っています。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>わたしは知っています 恵みあふれる母よ</p>
<p>ナザレの村で あなたは何も望まず</p>
<p>きわめて貧しく 生きておられた</p>
<p>恍惚 奇跡 脱魂などが あなたのご生涯を</p>
<p>飾ることはなかった</p>
<p>おお 選ばれた者たちの女王よ！</p>
<p>この地上には 数多くの小さい者がいる</p>
<p>彼ら小さい者こそは 恐れおののくこともなく</p>
<p>あなたに向かって 目を上げる</p>
<p>比類なきおん母よ 彼らを天国に導こうと</p>
<p>あなたは好んで 普通の道を示された</p>
<p> </p></blockquote>
<p>ここでテレーズが「貧しく」というのは物質的貧しさではありません。脱魂･奇跡などが聖家族の生活を彩ることのない貧しい生活のことです。聖ヨゼフの仕事の支払いを断られたり、その仕事について苦情を言われたりする聖母マリアは、妻・母として女性の苦労を奇跡によってまぬがれたわけではありません。聖家族の生活は全く単純で、「神さまにとって奇跡を行なうことは、いたってやさしいことでしたでしょうが、すべてわたしたちの生活のようでした」と『最後の言葉』でも語っています。「聖母の本当の生活は、全く単純なものであったとわたしは確信しています」。</p>
<p> </p>
<p><strong>信仰に生きるマリア</strong></p>
<p>このようにテレーズがマリアの隠れた生活を「説く」とき強調するのは、平凡なナザレでの日常生活で聖母がいかに信仰に生きていたかということです。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>あなたは わたしに感じさせてくださる</p>
<p>あなたの足跡を踏むのは 不可能ではないと</p>
<p>おお 選ばれた者たちの女王よ！</p>
<p>あなたはいつも もっとも慎ましい徳を行い</p>
<p>天国への狭い道を 目に見えるものとされた</p>
<p>マリアよ！ あなたのすぐそばで</p>
<p>わたしも小さいままで とどまりたい</p>
<p>地上の偉大さは すべてむなしい</p>
<p>あなたが訪問された エリザベットの家で</p>
<p>わたしも 温かい愛を行うことを学びます</p>
<p> </p></blockquote>
<p>マリアの生き方は信仰に生きる隠れた生活であり、この地上ですべての「小さき人々」があやかれる生き方でした。日常の平凡さ・困難の真中で、小さき者がその疲れたまなざしを臆することなく、聖母に向けることができるほど近づきやすい母マリア。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>聖母はわたしたちと同じように信仰によって生きていらしたことを浮きぼりにして、マリアさまの生活をあやかりやすいものとして紹介する必要があります。</p></blockquote>
<p>そして、聖母ご自身、わたしたちと同じように信仰に生きられたことを福音書の中から証拠となる箇所をあげて示す必要があると付け加えています。 たとえば、「両親は、イエスの答えを理解しなかった」ルカ２・５０。神の母マリアがいかに知性にとっての暗夜、信仰の暗い光に照らされて生きておられたかを示す必要があるかテレーズは強調します。</p>
<p> </p>
<blockquote><p><em>聖なる福音に記された あなたの生涯を想いつつ</em></p>
<p>わたしは あえてあなたを眺め あなたに近づきます</p>
<p>わたしがあなたの子だと信じることは</p>
<p>そんなに難しいことではありません</p>
<p>なぜなら あなたもわたしと同じように</p>
<p>苦しみ そして死ぬのだから……</p></blockquote>
<p> </p>
<p>斜体の部分はテレーズ自身が「強調されるべき箇所」としてわざわざ『注』をつけています。このことはわたしたちにとって非常に興味深いことです。</p>
<p> </p>
<p><strong>元后であるよりも母であるマリア</strong></p>
<blockquote><p>おお！ わたしは歌いたい！</p>
<p>マリアよ なぜ私があんたを愛するのか</p>
<p>なぜあなたのやさしいみ名が心を躍らせるのか</p>
<p>なぜあなたのこの上ない偉大さに思いを巡らしても</p>
<p>わたしの魂は恐れおののかないのかを！</p>
<p>あなたがおられるのは 崇高な栄光の中</p>
<p>あなたの輝きは あらゆる聖者に優る</p>
<p>けれども マリアよ あなたのみ前で</p>
<p>わたしは 目を伏せたりはいたしません！</p></blockquote>
<p> </p>
<p>ここに、テレーズの「マリアの子」として威厳･喜び･謙虚さを感じ取ることできる。しかし、子としての自覚･母への親しさが、テレーズに決して聖母の崇高さを忘れさせることはありません。かといって、マリアの偉大さがテレーズをおそれおののかせることもありません。両極をしっかりとらえた関係こそ、テレーズと聖母との美しい均整のとれた関係といえるでしょう。</p>
<p>無原罪であり神の母である聖マリアの輝きは、すべての聖人たちの光栄をおおい隠すとたびたびテレーズは聞いていました。しかし、「そのようなことを人々に信じさせてはいけません。何とおかしなことでしょう。母が子の光栄を消してしまうとは！ 全くその反対で、聖母は、選ばれた者たちの輝きをいっそう増してくださる方だと思います」とテレーズは反論します。「マリアさまは、天と地の元后ですが、それ以上にお母さまなのです」。</p>
<p>そして、「わたしたちは、マリアさまよりもっと幸福です」と付け加えるのでした。なぜでしょうか。「マリアさまには、わたしが慕うような聖母がいらっしゃいませんから。もちろんイエスさまのお母さまです。でも、このイエスさまを私たちにくださいました。そして、イエスさまも十字架上で、マリアさまをわたしたちのお母様としてくださいました。 ですから、わたしたちはあなたより幸せです。」</p>
<p>ある司祭の手紙に、聖母は肉体の苦しみをご存じなかったと書いてありました。それに対して、テレーズは断言します。「マリアさまは、ご旅行の間、寒さ･暑さ･疲れなど大変苦しまれました……苦しみが何であるかご存知でした」と。子が母を慕い愛するには、母親は子とともに泣き、その子の苦しみをわかち合う必要を『詩』の中でテレーズは歌います。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>子どもが母を愛することができるのは</p>
<p>母が 子供とともに泣き 子供の苦しみを背負うから</p>
<p>ああ わたしの愛するおん母よ この異郷の岸辺で</p>
<p>わたしを引き寄せようと あなたは涙を流された</p></blockquote>
<p>　　</p>
<p>テレーズは確かに自分の内的体験を通して、マリアがいかに母であるか、自分の苦しみをわかち合って一緒に泣いてくださるまでに母であるかを知っていました。</p>
<p> </p>
<p><strong>Ⅱ テレーズと聖母とのかかわり</strong></p>
<p>司祭になってマリアについて説教したいとまで望んでいたテレーズは、一体聖母とどのようにかかわっていたのでしょうか。</p>
<p> </p>
<p><strong>すぐに、急いで、いつでも</strong></p>
<p>『教訓とその思い出』によると、テレーズはどのような仕事をはじめるにあたっても天使祝詞を唱え、その仕事を聖母にささげていました。それだけではありません、なにか心配事や困ったことがあると、「すぐに、急いで」母マリアの方を向いた。ちょうど小さな子供が何かことあるごとに、あるいは歩きはじめた子が一歩ふみ出すごとに「ママ」と呼ぶように、母マリアに単純なまなざしを向けることをテレーズは身につけていたのでした。そしてそのたびごとに、「最もいつくしみ深い母親のように責任をもって、わたくしのためにはかってくださる」という確信を深め、聖母との絆を堅固にしていました。</p>
<p> </p>
<p><strong>聖母をよろこばせる</strong></p>
<p>すぐに、急いで、いつでもマリアの方に心を向けていたテレーズが、「言うのも恥ずかしいことですが」と前置きして告白していることがあります。マリアの祈り、ロザリオを唱えるのは、苦行の道具を身につけるよりもテレーズにとってつらかったのです。どんなにロザリオの玄義を黙想しようと努めても、どうしても精神を集中できません。聖母を「これほど愛しているのに」とこの不信心にテレーズはかなりながいこと嘆いていました。この体験を通してテレーズは、子供の善意だけをみて満足してくださる母マリアへの信頼をさらに深めていったのでした。</p>
<p>それはテレーズが亡くなる二十日ほど前のことでした。子供のころに奇病から彼女を救ってくれた「ほほえみの聖母」像の手と足もとに、テレーズは矢車草で編んだ冠を一つずつ置きました。メール・アニェスはそれを見て、言いました。聖母の手の中に置いた冠は「あなたのためのものでしょう」と。「いいえ、聖母はお好きなようになさるでしょう。差し上げたのは、マリアさまに喜んでいただきたいから、それだけです」。なんという答えでしょう。死を迎えようとしている自分のことより、テレーズは母を喜ばせたいと思うほど、愛において自分から解放されていたのです。</p>
<p> </p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2126" title="N.P. N.M. Venawque　etｃ194" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/04/3f57cc9e246811a107466062b970c93d-127x200.jpg" alt="N.P. N.M. Venawque　etｃ194" width="127" height="200" /></p>
<p> </p>
<p><strong>母マリアの取り次ぎを頼んで</strong></p>
<p>このようにテレーズは「聖母を愛している自分」から、まなざし、思いを完全に聖母ご自身へと移行させるまでに聖母を慕い愛していました。 そして「主がわたしに対して遠慮なさることがないように、聖母の取り次ぎを願う」のです。母としてマリアはテレーズのどんな小さな望みでも、どのようにしたらよいか知っておられます。そしてまた、主に無理に願うことなくすべてにおいてみ旨のままになるよう聖母は、取り計らってくださいます。そのようにテレーズは信頼していました。</p>
<p>それで、姉たちが妹テレーズのために「美しい死」を願ったとき、テレーズは姉たちを喜ばせるために「美しい死」を主に願うのは聖母の取り次ぎによってでした。そして、「最も美しい死とは、十字架上のキリストの死でした、わたしが望むのはそのような美しい死です」と姉たちに言い残すことも忘れませんでした。</p>
<p>聖母に祈って聞き入れられないとき、それ以上無理を願わず、聖母のなさるままに任せ、そのことについて心配してはいけないとテレーズは言います。亡くなる当日、全く力が尽き、あえぎながら苦しい呼吸をしていました。「どれほど熱心に聖母にお祈りしたことでしょう……けれども少しの慰めすらなく、全くの臨終の苦しみだけです」と言うテレーズは、見捨てられたと思うのでもなく、愛にみちた信頼のまなざしを聖母像に向けていたのです。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>イエスは　わたしにお与えくださったものを</p>
<p>なんでも　取り返していいのです</p>
<p>わたしには遠慮はご無用と　お取り次ぎください</p>
<p>主が隠れてしまわれても　わたしはかまいません</p>
<p>待ちましよう</p>
<p>信仰のかげが消え失せる、暮れることのないその日まで。　　　</p></blockquote>
<p>　　　　　　</p>
<p><strong>内的試練にもかかわらず</strong></p>
<p>これほど主と聖母を愛していながら、このような考えがおこるとは！……でもわたしはそれに気をとめません。</p>
<p>このような考えとはなんであったのでしょうか。テレーズは死ぬ一ヶ月前、病室から見える墓地のそばにあるマロニエ並木の真っ暗な穴を指さしました。「わたしの心も体もちょうどあの穴のようなところにいます。何とおそろしい闇でしょう」と言った内的試練のことでした。それは測り知れない信仰の闇であったのです。四歳半のテレーズが母を亡くしてからは、兄弟三人をふくめると、家族の半分は「天国」にいました。こうして幼少の頃から「天国に行かれるかしら…」、「天国に行くには…」と祈り、徳をつみ、天国目ざしてただひたすら生きてきたといえます。そして喀血し死と直面するようになった一年前頃から、テレーズの前に立ちはだかったのはこの内的試練の厚い壁でした。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>死はお前の希望しているものを与えてはくれまい。それどころかもっともっと深い闇、虚無の闇を与えてくれるだろうよ。 『自叙伝』２７８</p></blockquote>
<p> </p>
<p>テレーズが同じ年の五月に書き残した詩の中では、心と体のこの苦しい試練に関しては全く沈黙しています。ただ十六節に、その試練との関連を読みとることができるだけです。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>天の王は ご自分の母が</p>
<p>苦悩の闇に沈むことを望まれた</p>
<p>マリアよ 地上の苦悩はよいことなのですね</p>
<p>愛しながら苦しむ それこそもっとも純粋な幸せ</p>
<p>イエスは 私にお与えくださったものを</p>
<p>何でも 取り返していいのです</p>
<p>私には遠慮はご無用と お取り次ぎください</p>
<p>彼が隠れてしまわれても 私はかまいません</p>
<p>彼を待ちましょう</p>
<p>信仰が消える 暮れることのない その日まで</p>
<p> </p></blockquote>
<p>『自叙伝』の中でこの試練の沈黙について、テレーズは身ら述べています。</p>
<p> </p>
<blockquote><p>実際、わたしが今年作ったいくつかの小さな詩に表れている気持ちから推察すれば、わたしは、信仰の幕がほとんど裂けそうになっている慰めに満たされた者のように見えるでしょう。 『自叙伝』２８２</p>
<p> </p></blockquote>
<p>テレーズは、聖母が信仰によって生きぬかれたことを強調していました。そして、その聖母にあやかって暗夜に信仰を生きぬいていたのです。信仰のない人々のために、「かたい黒パン」をかじっていることを自覚しながら。その深淵はあまりにも深い。しかし、その深淵から湧き出る清水で、今もわたしたちは潤わされています。ここにこそまさに、最年少の教会博士聖テレーズの二十一世紀における使命があるといるでしょう。</p>
<p>　　　　　　　　　　　『テレーズの約束ーバラの雨』サンパウロ　伊從信子著より</p>
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		<title>[変更あり]　祈りの集い２０１２年５月の予定</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2108</link>
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		<pubDate>Sun, 15 Apr 2012 05:48:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの集い]]></category>

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		<description><![CDATA[
２０１２年５月の祈りの集い


 
 ２０１２年５月２６日（土）
午後2時から、上石神井のノートルダム・ド・ヴィにて。　地図はこちら
都合により伊従信子のみの講話となりました。
みなさまの参加をお待ちしております

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div>
<p style="text-align: center;"><strong>２０１２年５月の祈りの集い<br />
</strong></p>
<p style="text-align: center;"><img title="ノートルダム・ド・ヴィ聖堂" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/08/Kamishakujii-House044-200x150.jpg" alt="ノートルダム・ド・ヴィ聖堂" width="146" height="110" /></p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p style="text-align: center;"><strong> </strong><strong>２０１２年５月２６日（土）</strong></p>
<p style="text-align: center;">午後2時から、上石神井のノートルダム・ド・ヴィにて。　<a href="http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&amp;lat=35.730184809251&amp;lon=139.58357963075&amp;z=18&amp;mode=map&amp;pointer=on&amp;datum=wgs&amp;fa=ks&amp;home=on&amp;hlat=35.730184809251&amp;hlon=139.58357963075&amp;layout=&amp;ei=utf-8&amp;p=" target="_blank">地図はこちら</a></p>
<p style="text-align: center;">都合により伊従信子のみの講話となりました。<br />
みなさまの参加をお待ちしております</p>
</div>
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		<title>イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために（2）ーマリー・エウジェヌ師と共に</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/834</link>
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		<pubDate>Fri, 06 Apr 2012 00:00:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[信仰生活]]></category>

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		<description><![CDATA[　２年前の２０１０年３月に来日したエマニュエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を２回続きで、再度掲載しています。これが2回目の最終回です。
　　内容は、聖週間に限定されることなく、イエスとマリアと共に、信仰を生きるため ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　<strong>２年前の２０１０年３月に来日したエマニュエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を２回続きで、再度掲載しています。</strong><strong>これが2回目の最終回です。</strong></p>
<p>　　内容は、聖週間に限定されることなく、イエスとマリアと共に、信仰を生きるためのヒントがたくさん発見できると思います。キリスト教の信仰を深めたいと思う方すべてに、おすすめします。</p>
<p><strong>どうぞ良い復活祭をお迎えください。</strong></p>
<p><strong><br />
</strong><strong>イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために<br />
　　 ～幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に～（２）</strong></p>
<p>　　　　 　講師　エマヌエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2010年３月28日（日）</p>
<p><strong>イエスの最後の息</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-850" title="croix" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/croix-200x134.png" alt="croix" width="200" height="134" />イエスが十字架で息を引き取った時、マリー・エウジェンヌ師は、本当にイエスの側に立っているかのようでした。私たちもその場所に招かれています。聖書の中で“イエスが息を引き取られた”と書いてあります。イエスの言葉、“父よ、私の霊を御手にゆだねます。”にある霊は、マリー・エウジェンヌ師にとっては聖霊です。そして彼はイエスのすぐ側で、この息を頂こうとします。これが師の祈りでした。<br />
『イエスよ、あなたの最後の息をいただき、その息吹に乗って父のもとに行かせてください。私の魂も、あなたの息吹に運ばれていきますように。神の息、イエスの息吹、その息吹をおし抱き、自分のものとしたいのです。』<br />
その受難と死によって、イエスは私たちに全てをくださいました。全てを下さったので、彼にはもう何も残っていません。そして、ご自分自身を私たちにくださったのです。父に全てを返し、私たち一人ひとりにも下さいます。イエスは、私たち一人ひとりに私たちの人生の意味を教えてくれます。なぜなら、私たちもイエスと同じことをするように招かれているからです。頂いた聖霊の恵みを持って、マリアと共に・・・・。</p>
<p><strong>聖土曜日　マリアと共に</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-849" title="Marie noir" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/Marie-noir-136x200.png" alt="Marie noir" width="136" height="200" />十字架の上でイエスは私たちにマリアをくださいました。愛された弟子ヨハネは、マリアを自分の家に引き取ります。そして、聖土曜日は特別な日となります。それは同時に、聖母マリアの日とも言えます。イエスは死んでおり、沈黙と喪に服す日です。でもそこに希望がほのかに見える日でもあります。マリアは十字架のもとに立っていました。マリアはこの闇の絶望の中にも立ち尽くしていたのです。そこで希望と信仰を保っていました。父なる神の小さな娘として・・。この聖土曜日の、小さな唯一の希望は、聖母マリアでした。私たちの人生においても、聖土曜日があると思います。全てが闇に覆いつくされるとき、それはマリアの時です。<br />
弟子ヨハネの家に迎え入れられたマリアは、そこで唯一の希望でした。ですから、この聖土曜日に、私たちもマリアとともに、ヨハネの家に行きたいと思います。マリアのそばに留まるために。子どもたちがそうするように、マリアを母として眺めそばにいるために。これが聖土曜日の師の祈りの一節です。<br />
『マリアよ、今あなたは、私たちの唯一の生ける希望。あなたのそばに行きます。エルサレムでの持ち家に、ヨハネはあなたを連れて帰り、二階の高間へと案内します。私たちもまた、静かにあなたのもとに留まっていたい。あなたを見つめ、沈黙によって愛を表すわすために。あなたの心の深みへと入って生きたい。共にこの何時間かを過ごしていきたいのです。』<br />
そのときのマリアは信仰の人でした。彼女は、その苦しみを乗り越えて、信仰のうちに留まるのです。神のもとに隠れ家を求めていきます。私たちはマリアの子どもですから、彼女の真似をしたいと思います。子どもたちがいつもお母さんを真似るように。<br />
『マリアよ、今日、あなたの教えてくださることが深く心に刻み付けられるよう、あなたのそばに留まらせてください。あなたに倣うことは、苦しむこと・・。苦しみに押しつぶされそうになっても、希望を保っていること。人間的な支えもなく、人の目から見れば絶望的に思われるときでさえも、この信仰、無一物となった希望によってこそ、復活の神秘のうちに入って行くことができます。こうして希望が大きくなればなるほど、復活された主から湧き出でる命の水の泉から、ふんだんに飲むことができます。マリアよ、それはとりわけ神の哀れみの愛とあなたの慈しみによるのです。』</p>
<p>　<strong>マリアの希望と復活の喜び</strong></p>
<p>　<img class="alignleft size-medium wp-image-851" title="PICT3495_2" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/PICT3495_2-154x200.jpg" alt="PICT3495_2" width="154" height="200" />ですから、マリアの信仰と希望と共に復活の喜びの中に入っていきましょう。そしてこの世の闇の神秘の中で主は復活されました。復活の日は命の勝利の日です。これが私たちキリスト者の信仰の中心です。私たちの希望の基盤です。なぜなら、神の愛は私たちの罪と死を超えて無限に強いからです。復活したキリストを眺めながら、マリー・エウジェンヌ師の眼差しは教会に広がっていきます。キリストの命とは、キリストの肉体の命だけを意味しているのではありません。それは同時に、「教会」というキリストの神秘体の命も示しています。この命は私たち一人ひとりのためのものです。復活祭は教会の始めです。そしてここでイエスはその体で、あふれる命を私たちに示されます。それは同時に彼の神秘体の命の溢れでもあります。キリストから溢れ出る命は、私たちの魂の中にあふれ出て、キリストの神秘体のうちにも全て溢れ出ていくのです。<br />
　キリストの命は、私たち一人ひとりのためであり、私たちの周りにいる全ての人々のためです。復活祭の日というのは、私たちがキリストの命をまわりに広げていくことができる、そんな日でもあります。それをするようにとマリー・エウジェンヌ師も私たちを招きます。</p>
<p>　<strong>復活の朝に　キリストとマリアの出会い</strong></p>
<p>今日、私たちの祈りによって、今日この復活の日に、主が私たちのうちに命を広げていってくださることを願いましょう、その命が私たちの愛する全ての人びとのうちに、教会全体に広がっていくように・・・。福音書ではその後、主がどのように弟子たちに現れたかが書かれています。福音書には書かれてはいませんが、キリストが母であるマリアに出現されたということは、マリー・エウジェンヌ師にとっては、当然なことでした。教会の歴史の中で沢山の聖人たちがそのように考えてきました。特に復活祭の次の日、復活祭の月曜日に、師は、キリストがマリアに会われる場面を黙想しました。キリストが特別に母マリアのもとに来られ、母を慰める日なのです。復活の輝く光の中でご自分を母に示すために・・・。<br />
師はやや大胆にこのように語ります。<br />
『復活の日の聖母に目を注ぎましょう。主がみ母マリアにお現れになったことは、確かだと思います。復活されたおん子は、み母がご自分の喜びと勝利にあずかることを望まれたはずだからです。』<br />
この場面を愛する人の全てを知りたいと望みつつ、よく眺め、黙想しました。<br />
『今日、しばらくの間、この復活の月曜日に、聖母マリアの喜びに目を注ぎましょう。私たちの母であるマリアがどのようにこの日を過ごされたのか、何を心の中で思い巡らしておられたのか知りたいからです。』<br />
マリアの心の内に何があったのでしょうか？それは喜びでした、溢れんばかりの喜びでした。復活の月曜日の説教の中で師はこう語ります。<br />
『今日、イエスは復活しみ母に現れました。なんという喜び！お告げのときの天使の言葉は本当でした。マリアが世に与えたおん子は確かに、神の子、救い主でした。人々の手にかかって殺されたのはおん子自ら苦しみと死を味わわなければならなかったからでした。』この喜びの祝いは聖霊の祭りとも言えます。これは既に天上の喜びの一端です。そしてこのように語ります。<br />
『これがマリアの喜び、聖霊はマリアのうちで祝宴を開きました。ただ外目にはまったき静けさのうちに。すでに天上のもののような清らかさと美しさの中で。』</p>
<p><strong>教会の母、マリア<br />
</strong><br />
このマリアの喜びは教会全体の喜びでもあります。なぜならマリアは私たちの母であり、私たちはマリアに向かってお母さんと呼びます。彼女の喜びは私たちの未来でもあります。なぜなら、私たちもいつかその喜びを味わうことができるからです。この地上は、闇の中、暗闇の中でしょう、でも私たちはその喜びに向かって歩んでいるのです。その喜びは私たちの望み全てを満たしてくれるのです。そしてその喜びは私たちの期待の全てを越えるものです。ですからマリアに私たちの聖週間の歩み、復活祭へ向かう歩みをゆだねましょう。それは信仰と希望と愛のうちの歩みです。ここで紹介したマリー・エウジェンヌ師と教会の中の全ての聖人たちとともにイエスに従って歩みましょう。私たちの歩みはつつましく、貧しいものかもしれません。私という貧しい小さな罪人のためにこそ、イエスはこの世に来られたのです。そしてある日、私たちも使徒パウロのように、このように言うことができるのではないでしょうか。パウロと全ての聖人たちと共に。<br />
「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。この肉体における私の命を、私は神の御子キリストへの信仰のうちに生きている。キリストは私を愛し、私のためにご自分を捧げてくださったのだ。」</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜終わり＞</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために（１）ーマリー・エウジェヌ師と共に</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/837</link>
		<comments>http://www.ndv-jp.org/news/837#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 06 Apr 2012 00:00:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[信仰生活]]></category>

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		<description><![CDATA[２年前の２０１０年３月に来日したエマニュエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を２回続きで、再度掲載致します。良い復活祭をお迎え下さい。
イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
～幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>２年前の２０１０年３月に来日したエマニュエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を２回続きで、再度掲載致します。良い復活祭をお迎え下さい。</strong></p>
<p style="text-align: right;"><strong>イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために<br />
～幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に～</strong><br />
講師　エマヌエル・ヒルシャワー神父（ノートルダム・ド・ヴィ司祭）　<br />
2010年3月28日（日）</p>
<p><strong>はじめに</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-838" title="jerusalem" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/jerusalem-200x132.png" alt="jerusalem" width="200" height="132" />クリスマスには私たちは、ベトレヘムを訪れます。<br />
3月、4月は、エルサレムを訪れる時です。今日はみなさんご存じのように枝の主日ですね、<br />
ですからわたしたちは今日、エルサレムを訪れましょう。そして、イエスとともに、聖週間に入っていきましょう。<br />
心をこめて、イエスに近づき、イエスとともに歩みましょう。そして彼の受難、復活をたどっていきたいと思います。でも私たちは一人ぼっちではありません、いっしょにイエスの後に従って歩んでいくのです。この「いっしょに」とは「教会」を意味します。そして教会の中には私たちを導いてくれる導き手がたくさんいます。<br />
今日は、そんな導き手の一人、マリー・エウジェンヌ師をご紹介します。彼は、彼とともにイエスの後に従っていくよう、導いてくださいます。<br />
でも、こうしてイエスに従っていこうとする時、わたしたちの心には、こんな疑問が浮かびます。<br />
「わたしにはそんなことが、果たしてできるのだろうか？」<br />
「この欠点だらけの私が、イエスに従うなど、できることなのだろうか？」</p>
<p><strong>洗礼とは？</strong></p>
<p>実は、私たちは洗礼を受けたことによって、イエスに従っていくために必要な全てのものを持っているのです。なぜなら、洗礼を受けたということは「イエスの神秘の中に沈められた」ことだからです。洗礼の時に私たちはイエスの死と復活の中に沈められ、そこから引き出されました。ですから私たちはみな、イエスに従っていくことができるのです。そして洗礼の恵みは、私たちをキリストに似た者にしてくれます。<br />
それはまるで、私たち一人ひとりが小さなキリストであるかのようです。クリスチャン、キリスト者であるということは、文字通り、小さなキリストであるということです。ですから、マリー・エウジェンヌ師は、よく洗礼について語り、洗礼というものがどれほど偉大で素晴らしいかについて語ったのです。洗礼は私たちを神の命に参与するもの、神の命に交わっていくものとさせて下さいます。ただ、それはとても神秘的なことで、私たちには理解のできないことです。それは私たちのうちで、私たちを通って行なわれることだからです。<br />
洗礼によって私たちはキリストに学ぶことができます。学ぶことで、私たちはキリストにますます似た者になっていくことができます。それは一人ひとり違うやり方で行なわれます。一人ひとりがそれぞれのやり方でキリストに似た者となるように招かれています。そしてそれは、誰にも真似のできない、一人ひとりに特有のものなのです。ですから、洗礼の時に頂いたこの恵みを、だんだん開花させていかねばなりません。では、これからキリストの後に従っていきましょう。そして、彼に従って歩むことを恐れないようにしましょう。</p>
<p><strong>キリストを知ろう！</strong></p>
<p>では、どんな準備をしたらキリストに従っていくことができるのでしょうか。最初にまず必要なことは、キリストについて知りたいと思うことです。そしてもっと知りたいと願うことです。もちろん、私たちはキリストのことを多少なりとも知っています。でも、今自分が知っていることに、決して満足してはならないのです。それは当然のことで、誰かを愛するときには、その人をもっと知りたいと望むのと同じです。<br />
ですからマリー・エウジェンヌ師はよく聖書を読み、特に福音書を研究しました。福音書のどんな小さなことがらにも目を留めました。なぜかというと、愛する人について、とことん知りたいと思ったからです。今日、私たちは、枝の主日から聖週間に入ります。主に向かって「私はあなたをもっと知り、あなたに従っていきたいのです」と言いたいと思います。「私にあなたのみ顔を示してください」と。神は神秘です。ただ、神秘であるということは私たちが知ることができない方だということではありません。いくら知っても知り尽くすことができないという意味です。イエスを私たちの思いの全て、心の全て、知性の全てをかけて知っていきましょう。ここに描かれているイエスが愛する弟子、ヨハネのように・・。</p>
<p><strong>信仰とは？</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-864" title="yohane" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/yohane1-143x200.png" alt="yohane" width="143" height="200" />この愛された弟子、ヨハネはイエスの胸の上に頭をもたせかけた人です。私たちも人を愛する時に、本当にその人のことを知りたくなります。そして次に、必要なのは信じることです。知性（知ること）と意思（愛すること）は、それだけでは足りないのです。つまり、信じること（信仰）こそが神の中に入って行くことができる力を持っています。神のことを知ることができるのは信仰によってなのです。<br />
マリー・エウジェヌ師はよく、信仰について語りました。信仰とは、神から与えられたタレント（才能）のようなものです。神から私たちへのプレゼントです。神に向かっていくことができる力を秘めたプレゼントです。神のうちに入って行くことができるプレゼントです。信仰は本当に力のあるもので、神を私たちに与えてくれます。</p>
<p><strong>マリアと共に</strong></p>
<p>まず、キリストを知ろうと願うこと、次に、信仰を持って神に近づくこと、そしてそのためには私たちにはお母さん（マリア）がいます。私たちはエルサレムには独りぼっちで行くことはできないのです。子どもがよくそうするように、私たちはお母さんに手を引かれてエルサレムに行く必要があります。マリアは私たち一人ひとりにとって、お母さんだからです。マリアをお姉さんと思う人もいるでしょう。<br />
そしてマリアがいるところには必ず聖霊がいます。聖霊も私たちがキリストを発見し、キリストに従うことを助けてくれます。祈ることを教えてくれるのも聖霊なのです。聖霊は歩み続けることを教えてくれます。決してがっかりすることなく。この人生には霧がかかることも、寒い時も、苦しいこともたくさんあります、でも、私たちはマリアに手を引かれてキリストに従っていくことができます。これから一日ずつ、聖木曜日から復活の日までをたどっていきましょう。ともにキリストにまなざしを注ぎつつ・・。</p>
<p><strong>　聖木曜日—弟子達の足を洗うイエス</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-865" title="repas" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/repas1-200x147.png" alt="repas" width="200" height="147" />まず、聖木曜日です。マリー・エウジェンヌ師はこの聖木曜日に、最後の晩餐の席に私たちを招きます。これは一番初めの頃の、最後の晩餐を描いたフレスコ画です。ローマのカタコンベの中に描かれていた絵です。このテーブルはこちらに開かれていて、まるで私たちを手招きしてくれているかのようです。私たちは本当にこのテーブルに招かれているのです。このテーブルに招かれて、キリストに愛されることに招かれているのです。<br />
イエスは弟子たちの足を洗います。イエスは私たちの足も洗うことを望んでいます。ある聖木曜日に、師はこのように祈りました。『イエスよ、私を清めてください。イエスよ、これが私の持っている傷です。私の心、私の全てをあなたに捧げます。私を清め、洗ってください。』<br />
ミサの中で、キリストは自分の体と血を私たちに下さいます。その体と血とは、イエスご自身が、私たちにご自身をゆだねられるということです。これは「私はあなたのもの」ということです。ご自分の命を私たちにくださいます。それはすばらしいことです。<br />
もう一つの祈りの中で、マリー・エウジェヌ師はこのように言います。『あなたはご自分を与えられることに喜んでおられます。それがあなたの愛のしぐさなのだ、と。永遠の昔からあなたは私たちを愛してこられた。そして、極みまで、最後まで私たちを愛してくださる。全てを与えるまで・・。』<br />
そんな時、私たちはどのような態度をとったらよいのでしょうか？そのときはただ、空の手を広げるだけです。この神が与えてくださる時、私たちに必要なことは受け取ることです。この与えられるものに開いている事です。そのためには貧しい人の心を持っていなければなりません。人に物乞いをする、そんな心を持っていなければならないのです。ですからこの聖木曜日に、人に物乞いをする人、貧しい人が満たされるといえます。『主よ、私の愛を広げてください。あなたが下さるものを受け取ることができるほどに、大きく広げてください。』</p>
<p><strong>　最後の晩餐</strong></p>
<p>そして最後の食事の時にイエスは沢山のことを語りました。特に使徒ヨハネが福音書の中に書き留めています。そしてイエスの親密な話を私たちに伝えてくれるのです。そこに書かれている言葉には真実の響きがあります。イエスは自分の一番深い部分にある真実を語られるのです。たとえば、私たちは枝であって、そのぶどうの木はイエスであるということ、それはイエスなしでは私たちは何もできないという真理を示しています。なぜなら、ぶどうの枝は切られて捨てられてしまいます。ということは私たちもぶどうの枝が切られるように、清められなければならないことを意味しています。試練もあるでしょう。でもそれは新たな実を結ぶためなのです。イエスは本当のことをここで弟子たちに語られます。なぜなら、愛と真理は共に歩むものだからです。そしてキリストはここで新しい福音を私たちに告げられます。素晴らしい贈り物をしてくださるのです。それが聖霊です。</p>
<p><strong>私の友、聖霊</strong></p>
<p>聖霊について語ると、マリー・エウジェンヌ師はとどまることがありませんでした。まるで聖霊と共に生きていたかのようです。友達と一緒に暮らしていたかのように・・。最期のときに、彼は人々の前で告解をしました。その最後の告解で、「私は聖霊を本当に信頼しなかった」、これが彼の罪の告白でした。しかし、聖霊はいつも私たちとともにおられる方です。毎日の生活の中で・・。聖霊は私たちをとても注意深く、愛情深く見守っている方です。私たちの内側から働きかけてくださる方です。まず、みなさんが今日、ここにいらっしゃっている、ということが聖霊の働きです。そしてこのノートルダム・ド・ヴィという会で、全てをなさったのは聖霊です。みなさん一人ひとりの中で今も聖霊は働き続けています。あなたたちの愛する友達、家族の中でも働いておられます。師の祈りは、この聖霊に対する信仰を願うことでした。たとえばこのように語っています。愛の霊よ、わたしたちのうちにおられる。どうそ私の主となってください。私たちの主人となってください。そして私たちがいつもあなたと共にいることができるように。そしてあなたに本当に信頼することができるようにしてください。沈黙と、時に祈りの中で、何も感じることがないときにも・・。</p>
<p><strong>ゲッセマネの園</strong>、</p>
<p>経験によると聖霊は非常に力強い方であるのに、ひそやかな方ともいえます。あまり騒ぎ立てない、そういう方です。一つのイメージとして、これはほとんど感じることができない息吹のようなものだといえます。この聖霊をイエスは私たちに与えようとなさったのです。私たち一人ひとりが自分にとって親密なやり方で、聖霊を頂くことができるように。この食事が終わり、弟子たちへの話が終わった後で、主はゲッセマネの園と呼ばれたオリーブの園へ弟子たちと共に行かれます。オリーブの園でイエスは再び祈ります。でもこの時は非常に苦しみに満ちた祈りでした。マリー・エウジェンヌ師はよくこのゲッセマネの園でのイエスの祈りについて黙想をしました。そして彼の態度はいつも同じです。いつもイエスに近づこうとします。イエスと共にいて、イエスを眺めるために、イエスの言葉を聞こうとして、イエスに近づこうとします。<br />
そしてある木曜日の夜、彼はこのように祈りました。<br />
「イエスよ、私はあなたから離れたくないのです。あなたに従わせてください。あなたはここでうめき、嘆いておられる。あなたのそばに近づくと、あなたが血の汗を流して祈っておられるのが見えます。」</p>
<p><strong>イエスの苦しみ</strong></p>
<p>この苦しみに満ちたゲッセマネの園の祈りは、それはイエスの無限の清さとこの世の罪の出会いの結果でした。イエスはまさに神の子羊だったのです。そして私たちの罪を背負って下さったのです。彼が背負ったのは私たちの罪でした。過去と現在と未来の全ての人類の罪でした。この全ての罪を彼はご自分で担われたのです。それはまさに彼自身が大罪人になったかのようでした。そして、その祈りの中で彼は一人の哀れな罪びとのような姿をとります。でもその時、彼ご自身が世の罪を引き受け、世の罪を取り除く神の子羊だったのです。そして我々から罪を取り除いて下ったのです。私たちもまた、イエスの姿を眺めるたびに、自分もまたイエスの姿に倣うように招かれています。イエスが生きられたこと全てを私たちも生きるように、と招かれているのです。もちろん私たちはイエスではないので、私たちの限界の中での話ですが。そしてまた師はこのように祈りました。<br />
「イエスよ、あなたにつながっていたいのなら、あなたは私があなたの苦しみを分かち合うことにも招いておられます。あなたと共に救い主でありたいのなら、あなたの苦しみによってでしか、できないのです。」<br />
祈ることによって、苦しむことによって、私なりのやり方でこの受難の日々を生きることによって・・・。<br />
この聖木曜日の祈りの後に金曜日が始まります。この日もマリー・エウジェンヌ師の望みは変わりません。ここでもイエスに近づき、イエスに従って生きたいと望むのです。そしてすぐ側でイエスの姿を見たいと願うのです。どんな小さな表情も見逃すことのないように・・・。</p>
<p>　<strong>聖金曜日-　十字架の道行き</strong></p>
<p><img class="alignleft size-medium wp-image-866" title="chemin de croix" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2010/05/chemin-de-croix1-120x200.png" alt="chemin de croix" width="120" height="200" />これは、彼の行なった十字架の道行きの黙想の最初の部分です。<br />
『主イエスよ、ピラトの皇帝から、カルワルオの丘へ至る、そう遠くない道のりを今、共に歩き始めます。一緒にこの道を歩かせてください。道すがら、あなたが感じていることを教えてください。そこで起きている出来事を眺めるのではなく、あなたのことが知りたいからです。人となった神のみ言葉であるあなたの心を知りたいからです。あなた自身を私たちに示してください。』<br />
イエスを愛するがゆえに、十字架の道のそれぞれのステップでイエスの全てを知ろうとします。イエスから全てを頂こうとするのです。イエスと共にイエスの受難に参与しようとします。<br />
たとえば、十字架の道行きにはキレネのシモンが十字架を担うという場面があります。そこでマリー・エウジェンヌ師は、直接、キレネのシモンに語りかけます。<br />
『シモンよ、あなたにはこの意味が分からなかったのだ。私たちも十字架を担わされるとき、その意味がわからないように私たちもシモンのように抗議してしまう。なぜ、こんな十字架を背負わされるのか・・・。だが、主よ、あなたはその限りない慈しみによって私たちの抗議に負けず、時に立派な十字架を与えてくださる。私たちがもっと愛深き者となり、使命を果たし、実を結ぶために必要な十字架を。なぜなら、苦しみを知らない者は、何も知らないのだから。』<br />
（続く）</p>
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		<title>カルメルの霊性 神と親しく生きるために（２３）</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2095</link>
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		<pubDate>Sun, 25 Mar 2012 00:00:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[カルメルの霊性]]></category>

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		<description><![CDATA[ 

復活されたキリストは




わたしたちを呼んでおられます。




　　　　　　　　　　　
わたしたち一人ひとりを、
いつか知ることになる永遠の名によって
呼んでおられるのです・・・・。
 
その永遠の名は
すでに存在しています。＊
 
幼きイエスのマリー・エウジェンヌ　ocd
　
まだ肌寒 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><strong> </strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong><img class="aligncenter size-medium wp-image-2105" title="画像 052" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/03/c2f2a4c1cdf34f56d0faafabadcb00f9-200x150.jpg" alt="画像 052" width="200" height="150" /><br />
復活されたキリストは</strong></p>
<table style="text-align: center;" border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" width="100%">
<tbody>
<tr>
<td>
<p style="text-align: center;"><strong>わたしたちを呼んでおられます。</strong><strong></strong></p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p style="text-align: center;">　　　　　　　　　　　</p>
<p style="text-align: center;"><strong>わたしたち一人ひとりを、</strong><strong></strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>いつか知ることになる永遠の名によって</strong><strong></strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>呼んでおられるのです・・・・。</strong><strong></strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong> </strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>その永遠の名は</strong><strong></strong></p>
<p style="text-align: center;"><strong>すでに存在しています。＊</strong><strong></strong></p>
<p> </p>
<p style="text-align: center;">幼きイエスのマリー・エウジェンヌ　ocd</p>
<p>　</p>
<p><strong>まだ肌寒い日、膨らみはじめた木々の芽にときおり白いものが舞い降りてきます。それでも今まで霜柱がたっていた大地からは新しい「いのち」が顔をもちあげはじめました。このページをくる頃は、色とりどりの花が春の訪れを告げ、自然界の「いのち」の饗宴が繰り広げられていることでしょう。今年のイースターは四月八日。春爛漫の自然とともに死と罪に打ち勝った「復活のキリスト」のいのちの勝利を祝い、復活されたキリストこそがわたしたちの希望でることをあらたに思い起こしたいものです。</strong><strong></strong></p>
<p><strong>復活されたキリストはわたしたちを呼んでおられるのです。わたしたち一人ひとりを、いつか知ることになる永遠の名によって呼んでおられます・・・。その永遠の名はすでに存在しているのです。＊</strong><strong></strong></p>
<p><strong>神の似姿に造られた人間は、自分のうちに「呼ばれ応える」という相互性が刻み込まれています。人間の応えがどうしてそんなにも大きな喜びを神に与えるのでしょうか･･･それは、その人の人格から湧き出る自由な応えだからです。</strong><strong></strong></p>
<p><strong>日々の汚れ、いたらなさ、失敗、罪の闇に覆われていても、覆われているからこそキリストの復活の「いのち」をさらに固く信じ、希望し、おん父の慈しみに信頼しつづけましょう。神に近づくのにふさわしいものになるまで待つ必要はありません。<br />
</strong><strong><br />
　わたしたちの罪を贖い「いのち」の勝利に輝く復活されたキリストの喜びのうちに、</strong><strong></strong></p>
<p style="text-align: right;"><strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</strong>伊従　信子</p>
<p style="text-align: right;">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ノートルダム・ド・ヴィ </p>
<p style="text-align: center;">＊『神と親しく生きる　いのりの道』より、聖母の騎士社</p>
]]></content:encoded>
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		<title>幼きイエスのマリー・エウジェヌ神父、「尊者」に</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2083</link>
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		<pubDate>Wed, 14 Mar 2012 02:44:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>

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		<description><![CDATA[
２０１１年１２月１９日、幼きイエスのマリー・エウジェヌ神父はその「英雄的な徳」を認められ、ベネディクト１６世によって「尊者」の称号を与えられました。「尊者」とは、教会がマリー・エウジェヌ神父の著作、手紙、教えを詳しく検討し、神父を知る人々の数多くの証言を聞いた結果、その生涯の聖性が認められたという ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2092" title="NP6" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/03/NP61-145x200.jpg" alt="NP6" width="116" height="160" /></p>
<p>２０１１年１２月１９日、幼きイエスのマリー・エウジェヌ神父はその「英雄的な徳」を認められ、ベネディクト１６世によって「尊者」の称号を与えられました。「尊者」とは、教会がマリー・エウジェヌ神父の著作、手紙、教えを詳しく検討し、神父を知る人々の数多くの証言を聞いた結果、その生涯の聖性が認められたということです。</p>
<p>　この宣言によって、神父がより多くの人に知られ、「人々を神へと導く」という使命が実を結ぶようにと祈りたいと思います。</p>
<p>　この機会に４月１４日には、特別・祈りの集いでマリー・エウジェヌ師の教えとその生涯をご紹介する予定です。皆様のご参加をお待ちしています。</p>
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		<title>[終了しました] 特別・祈りの集いのお知らせ ２０１２年４月１４日(土）</title>
		<link>http://www.ndv-jp.org/news/2078</link>
		<comments>http://www.ndv-jp.org/news/2078#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 14 Mar 2012 00:57:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>notre</dc:creator>
				<category><![CDATA[NEWS]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの集い]]></category>

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		<description><![CDATA[
幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父は教会により英雄的な徳を認められ、「尊者」の称号を与えられました。
そのその喜びと感謝のうちに、現代の人々を神へと導くというマリー・エウジェヌ師の使命が果たされる事を願って、特別・祈りの集いを企画しました。皆様のご参加をお待ちしています。　　　　　　　　　　　　 ...]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><strong><img class="aligncenter size-medium wp-image-2089" title="NP6" src="http://www.ndv-jp.org/wp-content/uploads/2012/03/NP6-145x200.jpg" alt="NP6" width="131" height="180" /></strong></p>
<p><strong>幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父は教会により英雄的な徳を認められ、「尊者」の称号を与えられました。</strong></p>
<p><strong>そのその喜びと感謝のうちに、現代の人々を神へと導くというマリー・エウジェヌ師の使命が果たされる事を願って、特別・祈りの集いを企画しました。皆様のご参加をお待ちしています。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</strong><strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</strong><strong><em></em></strong></p>
<p align="center">―プログラムー</p>
<p><strong><span style="text-decoration: underline;">１時～５時半頃まで</span></strong><strong>・・・</strong><strong>通常の祈りの集いと開始時間が変更されていますので、ご注意ください。</strong><strong></strong></p>
<p>＊ 講話　　（１時頃から）　　『わたしは神をみたい』の著者<br />
　　　　　　　幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の現代における使命</p>
<p>＊沈黙の祈り</p>
<p>＊ミサ　　　感謝のミサ　（３時ごろ）</p>
<p>＊お茶</p>
<p>＊ マリー・エウジェヌ神父の紹介　（プレゼンテーション）</p>
<p style="text-align: center;">　　<strong>場所：ノートルダム・ド・ヴィ　　参加費：２００円</strong><strong></strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>
<p align="center">お申込み・問い合わせ</p>
<p align="center">ノートルダム ・ ド ・ ヴィ</p>
<p align="center">〒177-0044　練馬区上石神井４－３２－３５</p>
<p align="center">TEL(03)3594-2247　FAX(03)3594-2254</p>
<p align="center">e-mail　notredamedevie.japan@gmail.com<br />
ホームページ　<a href="http://www.ndv-jp.org/">http://www.ndv-jp.org/</a></p>
<p align="center">＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>
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